October/2019 写真の展示(渋谷ルデコ)

2019年10月、渋谷にあるギャラリールデコでグループ展に参加した。2004年に参加した「ワークショップ2B(現在はワークショップH)」の門下生による年に1度の展示イベントだ。

ひとりあたり1.5-2mくらいの展示スペースになり、私は手持ちのフレーム(16x20インチ)6点展示した。

・展示タイトル「Time Flies」

・キャプション
「2006年に知り合った彼女は私を「日本の叔父さん」と呼び今年で20歳になる。2014年に知り合った女性はもうすぐ90歳になるそうだがまだまだ元気で私を「日本の息子」と呼ぶ。彼女は太平洋戦争中の日本兵との思い出を話してくれた。内容は日本人の私に気を使っているのか良いことばかりだった。 2019年8月、インド国境に近いチン州を訪れ75年前、最大の悪戦苦闘と言われたインパール作戦で敗走し病気と飢えで犠牲になった日本兵の遺留品を目の当たりにした。そして今も多くの英霊が帰れず眠っている。」

・会期:2019/10/15-20
・会場:ギャラリールデコ5階

 

撮影条件が悪く何が写っているのか分かりにくくなってしまったが左の上下、右の上下は同じ人物で間に13年や5年の時間が挟まっている。
そして真ん中の2枚は75年前から続く時間を写している。

時間が経つのは早く油断していると簡単に過ぎ去る。

August/2019 ⭐︎その5 ;ヤンゴンは抜け殻

8/10(土)

6時前、目が覚めても何もせずゴロゴロして7時過ぎにレストランに降りて朝食。

適当に食べて8時くらいまでのんびりして部屋に戻る。まずは傘を買わねばと調べたらルビーマートは9時に開く。傘と水とお菓子を少々買うのはいつものパターン。

結局グダグダして10時ごろに買いに行き部屋に戻る。12時にFBでやりとりしていた人がホテルに来るので少し散歩でもしようと降りて行ったらチェックアウト中に昨夜の二人に遭遇。座って写真集を見せたりして話していたら約束の時間より少し早く彼がきた。

若者2人は大阪から来ていて今日の夕方バガンへ向かうとのことで、その前にシェダゴンパゴダへ行くところだと。しばらく4人で話をして2人はシェダゴンへ向かって行った。私と彼は私の希望で近くの日本食屋へ行き私が鯖の塩焼き定食を食べた。彼は昼は食べないそうでミャンマービールを飲んでいた。

ヤンゴンを中心にカレン州、モノ州で色々はビジネスなどしているようで、今後も何かと付き合いがありそうな人だった。

一度ホテルに戻り、カメラと写真集を持って先週、新畑くんが行った「Myanmar Deitta」へ歩いて向かった。15分ほどで到着。

展示作家のYu Yu Myint Thanさんが居て少し話をした。ここは写真の展示以外にも写真に関するワークショップを行ったり、写真集などのライブラリもある。せっかくなので私の写真集2冊を寄贈した。今回は2冊セットだけ持ってきていて、何かの時に使おうと思っていたので丁度良い。Yu Yuさんが時間が無くあまり話はできなかったが今後も会うことがありそうだ。

そこから今回もGrabを使ってLilyHand craftへ向かった。インセインなので1時間くらいかかって辿り着いかが閉まっていた。

事前に詳しい行きかたのリンクをもらっていたのですぐに発見できたが、残念。明日もう一度寄ってみるかどうかだが。。

そこから鳥の写真展をやっているとFBにあったのでYangon GalleryへGrabで向かう。会場に着くとNikonのカメラが展示されていたりとそれなりの規模の展示だった。今回、見たかったのは写真もだが、展示自体の状況を見ておきたかった。

諸事情を考えると、まあ予想の範囲内だったが、個人的な感想としてはもう少し点数を絞った方が良い感じがした、良い写真も多いが?のもあり、薄めてしまっている印象だった。

プリントのクオリティと額装、展示はそれなりで仕方ないのだろう、ただ展示はもうすこししっかり揃えた方が良いだろう。これは素材では無くインストール作業なので工夫次第だ。

ヤンゴンギャラリーからホテルにGrabで戻る、今やヤンゴンでGrabは手放せないツールだ。

Myanmar Deittaを出た頃から雨が降り出し、写真は全然撮っていない。まぁ無理に撮る必要もないしそれなりで良いだろう。

夜はZaw Minさんとご飯を食べる予定で7時だったが、ANAの出発が遅れ、7:45に合流し近くの日本食、KinSAKURAへ、ここは以前ZAw Minさんのオフィスが入っているビルにあったのが近くに移転していた。

1時間くらい話をしていた。ヤンゴンギャラリーの展示の話、東川の話、都写美の展示の話などなど話は尽きない。

21:30ホテルに戻り解散、日本から帰国の夜にそのまま来てくれていつもありがたい。

明日は最終日、16:30過ぎにはホテルをチェックアウトしてヤンゴン国際空港へ向かう。

8/11(日)

朝起きると雨が強い。昨夜から断続的に降り続いてるようだ。ミャンマーのモン州、モーラミャイン、カレン州パアンなどで大規模な洪水、土砂崩れなので30人以上の死者、100人規模の行方不明者が出ているとニュースやFBで流れていた。

日本も台風が近づいているそうでこの時期は水害が多い。

朝から、空港近く、アウンミンガラバスターミナルの奥にある日本人墓地へ向かう。Grabで捕まえたドライバーが入り口がわからず、仕方ないので途中から自力で行くことにして下車した。

Google Mapもイマイチ違うようで困っていたら墓地(このあたり一帯は墓地になっている)の職員らしきおじさんが声をかけてくれて、バイクで日本人墓地まで連れて行ってくれた。お礼を渡そうとしても受け取らず、早く行けと。

日本人墓地が近くなるにつれ警官が多く物々しい。入ると日本人らしき人が黒いスーツ(喪服?)を来て立っていたので聞くと、日本の国会議員団が間も無くここに来るとの話。私は今夜帰国前にここに来た旨告げると、気にせず参ってくださいとの言葉にそのまま入る。10数年ぶりに来たと思うが、前回の記憶はかなり曖昧だ。今回チン州までいき、様々な物を見て聞いていたので、ここに来ると身が引き締まる思いだ。

間も無くすると後ろから黒い服を着た集団が入ってきた。10数人居る。顔を見てわかったのが駐ミャンマー丸山大使、原口一博議員、辻本清美議員だった。この二人とは少し話をした。チン州に日本軍の戦車の残骸があると話たら本当ですか?のような反応だった。

 

献花して間も無く一団が去ると静かになり。女性二人が日本の線香を持って現れた。これは事前に知っていたので記帳し20,000チャット寄進すると書いた。線香を手向け手を合わせる。

 

帰りはその女性二人がバイクの男性を指して乗っていけと。バスターミナルまで行き降ろしてもらう、お礼に1000チャット、まあそんなモンだろう。バスターミナルでGrabを使い再度インセインへ向かうもクローズしていた。。

昨夜Zaw Minさんにホテル代を払い忘れていたので電話して4時ごろにホテルに来るので、昼食とマッサージへ。

昼食は昨日の日本食屋が閉まっていたので富士フィルムにも行きたかったのでスーレースクエアのシャンヨーヤでシャンカウスエとトーフジョー、最後のミャンマー料理を一人で食べた。

そのあと富士フィルムへ。ミャンマー写真コンテストの図録?があり、買えるのかと聞いたら無料でくれた。

マッサージはいつものGenkyから暖簾分けされたGenky Kyal Sinへ。ここはホテルか数分と近いので助かる。90分、9000チャットでほぐしてもらう。

ホテルに戻りシャワーを浴びてパッキングを済ま背ていたらZaw Minさんから電話が来て丁度チェックアウト時間となった。

ホテル代を支払い、Fujifilm Myanmarの話、来年のミャンマー祭りの話などして私は空港へ向かう。日曜の夕方で雨も上がっていたのでさほど渋滞せずに17時過ぎに到着。タイ航空のカウンターでチェックインを済ませ、出国してカフェで久しぶりのカプチーノを飲みこれを書いている。

バンコクの乗り継ぎが1時間程度なのでゲートが近いことを望みたい。

しかし、ヤンゴン空港内にあるKinokuniyaの書店、今年もまだ存在していた。ほとんど客もこなさそうなのでてっきり今年あたりはもう無いかと思っていた。まぁそれを言ったらCOARCH,、FULRA、スワロフスキー、サムソナイト、TUMI、モンブランなどブランドも同じように客は少なそうだから同じか。。

次回は久しぶりに雨季以外の時期の来れればと思っている。

August/2019 ⭐︎その4 ;カレーからチン州にて

8/6(火)
マンダレー発、カレーミョー行きAIR KBZ K7226便はほぼ定刻に離陸した。今回は景色を見たかったのでチェックイン時に指定された通路側からCAさんに頼み窓側の空いている席に移動させてもらった。

雨季真っ只中の大地は褐色に湿っている。しばらく行くと大河チンドウィン川が蛇行しながら流れていた。ところどころ河岸に小さな集落があるが浸水しているように見えどこまでが川なのか分からない。そして飛行機の進む方向はインドまで続くアラカンの山々が折り重なって見える。

これまでミャンマーへ十数年通っているがシャン州インレー湖とヤンゴン以外ほとんど訪れていない。今回、カレーより入りチン州へ向かうに至るにいくつかのキッカケがあった。

インレー湖カウンダイン村のおばあさんに日本兵の話を聞いたこと、井本勝幸氏の日本兵遺骨調査を知り直接話を聞けたこと、NHK-BSの番組「戦慄のインパール」、クラウドファンディングで支援した茂野氏の映像作品「The Ancestors Memories」、ビルマ戦史研究家遠藤美幸さんの講演、鶴ヶ島で今泉清二さんとの話お聞いたことなど。特に今泉さんはインパール作戦から帰国しビルマ奨学金を設立しミャンマーと日本の関係に大きく貢献し、それが2020年東京五輪ミャンマーホストタウン鶴ヶ島市に繋がっている。

私も映像や本からビルマ戦線、特にインパール作戦は多くの書籍が残されており多少なりとも知識は得ていたが一度、現地に行ってみようと考えるようになった。8月はインパールで大敗し敗走するなか、食糧無くマラリアやアメーバ赤痢、脚気などで苦しみ、戦闘より餓死病死が増えていた時期になる。

カレーミョー空港に着いて飛行機を降りると思っていたより暑い。マンダレーから登った感覚だったがそうでも無いようだ。空調のない到着ロビーらしきところでイミグレーションを済ませて荷物を待っていると今回、案内してくれるマウンさんが来てくれた。

ホテルにチェックインしてから近くのショッピングセンターで傘を買って夕食まで休息。しかし上の階のカラオケがうるさい。聞くと夜の10時くらいまでらしく、夜中は静かになると聞いて安心した。

夕食はホテル裏手の小ぎれいなレストラン、味はまずまずだが店内が蒸し暑い。一応クーラーはあるがあまり機能していないようだった。ホテルに戻るとまだカラオケが続いていたが10時すぎ、ピタッと止んだ。頼りないがお湯が出るので髪を洗い、体を洗い明日からに備え早めに就寝。

 

8/7(水)
ホテルを9時に出発、街中はバイクが多いが町外れの大学を過ぎて登り坂になるとバイクも車も減ってきた。そして少し走るとチン州に入った。特にチェックポイントも無い。マウンさんに聞くと2012年以前はチェックポイントが沢山あり、パスポートやビザのコピーがたくさん必要だったと話していた。

山を登り始めると今回用意してくれた車、ランクルPRADOが威力を発揮する。雨も霧もはげしくなり10m先も見えない。クラクションを鳴らしながらの走行、そんな中多くのバイクとすれ違う。2人乗り、3人乗り、バイクの幅の3倍くらいの幅の荷物を満載したのもいて驚く。1時間くらい走ると車が止まる、この近くに大戦中に爆弾で大穴が空いた場所が残っているとのことで傘を差して山道を少し登る。昨日買っておいた大きめの傘が役に立つ。

その場所に着くと大きな穴が空き、時間が経ったため多くの草木が茂っていたがそれでも大穴の形はよく分かる。このあたりでも前回の調査で遺骨が3体見つかったそうである。

車に戻り、15分くらい行った道沿いの小さな村でイギリス軍の砲弾の先端部分が残っている家に寄ってた。ここの主人は近くの山々に入っては戦争の遺品などを集めいるそうだ。イギリス軍の砲弾は離れの中にあったが、母屋に入ると今度は日本軍の砲弾の残骸、恐らく擲弾筒の一部のような形をしていた、それと穴の空いたヘルメットが2つ。恐らく銃弾を受けて空いた穴だと思うが、即死だったのだろう。銃剣の先のようなもの、爆弾の破片、破片といっても1kgくらいありそうで、これが爆裂時に飛んできたらひとたまりもないだろう。本の中で爆裂片を足に受けて動けなくなったなどと記述されていたが実際を見ると恐ろしくなる。

今回の目的地ティデイムに着くと少し遅めの昼食。暖かい麺料理とジャスミン茶が体にしみる。

ゲストハウスにチェックインして一休み。目を閉じると今日見てきてたものが頭の中に鮮明に蘇る。ゲストハウスは屋上に上がることができ周囲を見回す。天気が良ければケネディピークが正面に見えるそうだが、雲と霧で見えない。

しかしミャンマー国内に不釣り合いな名前に山、イギリス統治時代に付けられたのだろうか?

部屋にいると土砂降りの雨、ゲストハウスが展望台のようなところなので傘を差して撮影へ。夕食へ行くのに18時に約束していたので少し前に外に出ると雨が上がり山あいに霧が残り幻想的な景色にしばし見とれカメラを持ち出し撮影した。

明日はさらに北上する予定だ。

 

8/8(木)
7時半にゲストハウスを出発し近くの食堂で朝食。牛肉を使ったカウスエで美味しい。ここのキリスト教徒が多いのかメニューに牛肉がある。8時過ぎ、うっすら霧の中出発、ティディム街道を北上するして30分くらいでマニプール川が現れる。茶色く濁り雨季の様相で流れが早い。インドのマニプール地区、その中心がインパールだ。

撮影しながら進むと重機を乗せたトラックが急な下り坂のヘアピンカーブで横転し重機ごと横たわっていた。舗装路を塞いでいたが路肩からなんとか通過。
しばらく行くと日本軍の手榴弾を保管しているおばあさんにあった。そのあと少し先の家で日本兵の名前が入った飯ごう、水筒、銃剣の先を保管してる家に連れて行ってもらった。飯ごうに「イナバ」の文字、所々小さい穴が開けられていたのは炊くときの調整用かと想像できた。

手榴弾見た目以上に重い、これが破裂するくらいの火薬を使うのかと思うとその威力は凄まじいい、映画などでしか見たことないが手に持つと色々な重みを感じる。

 

車でさらに北上しシンゲルで村の人が加わり日本軍の戦車の残骸へ、

林に入るとき近くの水たまりにバッファローが行水していて、我々に驚いて一瞬緊張したがすでにシンゲルのガイドさんは先に進んでいた、しかしぬかるみがひどくて足元が滑る。途中バランスをくづし尻もちをついてしまい、カメラが半分泥に埋まった。防塵防滴なので壊れはしなかったがファインダーの泥を落とさないと撮影がままならない。

戦車の残骸で、本体のように見えるが想像よりはるかに小さい。山の中に運び込む戦車だから小型なのだろう、戦争映画に出てくるような大きさより半分くらいに見える。

朝から雨に降られず、時より日も差していたがこの頃から遠く雷鳴、そしてスコールが降り始めた、急いで車に戻るが、気づくとシャツも泥だらけだった。
スマホで場所を確認するとインド国境まであと10キロくらいのところだった。
帰り道はスコールと霧だった。75年前はもっと雨が多かったと聞いている、そして想像以上に寒い。本当に想像できない状況で生きて帰った先人たちがいるのが不思議なくらいだった。明日の夕方、ヤンゴンへ戻る。

 

8/9(金)
夜中、お腹の様子が怪しくなり目がさめる。思い当たるのは昨日の昼食だ。

どこの村かもわからないが入った食堂で麺料理なら比較的安全だろうとマウンさんの配慮もあり食べたが、口に入れたとき妙な違和感を感じた。そこでやめて大人しく買ってあったパンで済ませれば良かったのだが、スコールと寒さで暖かい料理を食べてしまった。

朝、マウンさんに連絡すると薬を持ってきてくれて、これが効いたようで治まりつつあるのが助かった。

予定通り8時にチェックアウトしカレーワへ向かう。最終日はマウンさんからリクエストを聞かれ私は「チンドゥイン川へ行きたい」と伝えたところカレーワへ向かうことになった。カレーミョーまで戻り少し早いランチ、ここでも私は安全そうな麺料理を軽く食べた。

カレーミョーから1時間と少し、カレーワに2年前にリニューアルされた大きな橋に着いた。

チンドゥイン川にかかる立派な橋だ。車道の両側に細い歩行者用の通路があった。車で橋を渡り、戻るのは歩くことにした。眼下に茶色く濁った大河がゆっくりと流れている、ゆっくりに見えるが浮遊物の流れる様子を見ると見た目以上に流れが早そうだ。

75年前、白骨街道を必死の思いでチンドゥイン川までたどり着いた日本兵は満足な船もなくここを渡って行ったと本に書いてあった。目の前の景色を見ると現実味を感じない。
ここではなくてもう少し条件の良い場所を探したのだろうが流れる水量は変わらない。今日はたまたま天気が良く暑かったが大雨の中、しかも夜の渡河はやはり想像を絶している。
カレーミョに戻りチェックインまで時間があるので喫茶店に入り少し休憩。15:30、空港へ行きチェックインを済ませた。心配だった雨季の夕方便だが飛んでくれそうで一安心。
フライトは拍子抜けするくらい定刻出発、定刻着だった。

ヤンゴン空港でこちらに駐在している友人と食事をして私はいつものパノラマホテルへ。
ホテルのフロントでチェックイン。ドアマン、ポーター、フロントの人も私を覚えていてれて挨拶してくれたのは嬉しい。年に一度か二度しか来ない日本人を覚えているのはありがたい、
お腹もほぼ落ち着いてきた感じで一安心。

August/2019 ⭐︎その3 ;カローからメティラそしてマンダレー空港へ

8/5(月)
昨夜は断続的に激しい雨で雨音で何度か目が覚め、うとうとしていたら朝になっていた。9時にニャウンシュエに迎えの車がくるので早めに朝食をとり、荷物を確認して8時にチェックアウト。アンさんは忙しくずっとヤンゴンにいるそうで今回は会えなかったがホテルのスタッフが良くしてくれたので今回も快適なインレー湖だった。
土砂降りからカッパと傘で凌げる程度の小降りになりボートでニャウンシェへ向かった。

車は約束の9時より少し早くついて予定通りに出発できた。ニャウンシュエからシェエニャウンを左折して西へカローを目指す。ヘーホー、アウンバンをすぎて10:30、カローに到着。
カローへ向かう道中、ヤンゴンで買ったSIMの残高が無くなってしまいネット接続できなくなってしまった。その旨をドライバーさんに話をしたら車を止めて5000kytを購入してくれた。

カローで訪れる予定だった日本語学校の老先生が最近他界したことを数日前、友人からのメッセージで知ったがせっかくなので訪れたいと伝えた。中に入ると日本や日本語との関係を示すものがたくさんありここもミャンマーと日本をつなぐ貴重な場所だったことがしのばれる。

ここで戦争中日本軍が野戦病院に使っていた建物が今でもホテルで使われいてると聞き「カローヘリテイジホテル」へ向った。

カローヘリテイジホテルは100年以上前、英国の植民地時代に避暑地になっていた頃から建っていたようだ。そこを戦時中、日本軍の野戦病院として使っていた。当時、看護婦も日本から派遣されていたと本で読んでいたので周囲の景色は今と違ったのだろうかなど考えていた。

100年前からあるホテルは今でも現役でその佇まいを残していた。カローはいずれ何泊かしてゆっくり廻りたいと思わせる街だ。

友人の勧めでシャンレストラン「7シスターズ」でランチ。窓から街並みが見えるが、他のミャンマーの街と雰囲気が異なる、英国の影響か洒落た建物が多い。

12時少し前にカローを出発し一路メイティラへ。途中セキュリティチェックがあり少し驚く、ドライバー以外は車を降りてセキュリティチェックを受けて、車とドライバーは巨大なX線装置をくぐる、最初、何なのかわからなかったのでフィルムごと通してしまったのが少々心配だったが帰国後現像しても特に問題無かった。途中土砂降りの山道を走り車がかなり汚れていたのでガソリンスタンドでホースで洗車していた。ドライバーさんの運転や洗車を見ていて車を大切に乗っているのがよくわかり安心して乗っていられた。

午後3時少し前、概ね予定通りにメティラのホテルに到着しチェックイン。

メティラへ来た目的は私がミャンマー語を勉強している日本ミャンマーカルチャーセンター(JMCC)経由で私が里親サポートしている娘に会って激励しお土産の文房具を渡すことだ。

さて、これからどう移動しようかと思っていたらその子が通っている塾の先生から電話が来てバイクで迎えに来てくれた。

前もってJMCCの先生が色々伝えてアレンジしてくれていたようで、この日は何の苦労もなく移動できた。

最初、彼のバイクでダウンタウンにある彼の英語教室へ行った。そこに居るともう一人、数ヶ月前からFacebookで友達になりメッセージをくれていた女性から電話があり、彼に代わって話してもらったら知り合いということで話が早かった。

今回のメティラ滞在は僧侶、ダマタラ師がキーマンになっている。JMCCの先生も、今回会いに来た子のいる塾の先生もFacebookで友達になっていた女性も皆さん、ダマタラ師の教え子、同門生になる。そして彼らが各々塾を開きメティラの子供達に勉強を教えている。

Facebookで知り合った彼女の塾にへ行くと、今日の夜ここに戻って夕食をご馳走するから生徒たち(英語や日本など勉強している中高生)に話をしてほしいと頼まれた。

慌ただしいがその予定が決まるとサポートしている子が来る時間が近いので彼の塾へ向かった。インレー湖の仏像ファミリーにもらったマンゴーをここの教室へお土産として渡した。

彼の教室に着いて間も無く、約束の午後4時丁度にその娘がスクールバスと思われる乗合バスに乗って到着した。教室の後ろの黒板に最近のテスト結果一覧が書いてあり彼女が相当優秀なのがわかる。15歳の彼女は経済の大学進学を目指し勉強しているそうだ。

彼女の写真を撮って文房具の詰め合わせおの土産を渡し、激励を込めて話をした。

再び彼のバイクの後ろに乗りダマタラ師の元へ向った。少し街から遠いと聞いていたが15分くらいで到着した。ダマタラ師とはJMCCで確か2回くらい会っていたが私のことを覚えていてくれて、その時授業していた生徒たちに紹介してくれた。私も簡単に英語で自己紹介して記念写真を撮った。

ダマタラ師のところへ来たのは翌日、メティラからマンダレー空港まで車をお願いしていたので時間など相談するためだ。空港へ向かう途中に歴史のある珍しい様式のパゴダがあり、連れて行ってもらうことになりホテルの出発を朝8時に決めた。

その時、ダマタラ師から空港へ向かう車で英語を勉強している学生が2人同乗して話をしてもらっても良いかと聞かれたので、一緒に行きましょうと即答した。

ダマタラさんにた旧日本軍の慰霊碑と仏塔があると教えてもらい、バイクで連れて行ってもらった。慰霊碑に手を合わせ管理している僧侶に寄付して数枚写真を撮った。慰霊碑を見ると各部隊の名前が「戦友よ安らかに眠れ」の文字と共に刻まれていた。

日も傾いてきたのでそこから彼女の教室へ戻った。彼女は母親とお姉さんそして子供達7人とここに暮らして、夕方になると子供達が集まり勉強を教えているそうだ。

生徒さん達からの英語や日本語の質問、日本の歌を歌のリクエストまであったが、食事をご馳走になりつつ楽しい時間を過ごした。

夜8時半過ぎに先生はじめ子供達の何人かと一緒に私が泊まるホテルまで散歩することになった。ホテルはメティラ湖の大きな橋を渡った対岸にありのんびり歩いて行くと20分くらいかかりそうだ。

時々小雨降る道を歩きながら、数ヶ月前、彼女から突然Facebookに友達申請がきて、メッセージのやり取りが続き今に至ることを思い返していた。その時は彼女の目的・考えがわからず、正直少し警戒していた部分もあった。しかし子供達を自宅に住まわせ面倒を見ながら過ごしている彼女の生活、子供達に接する姿を見たら警戒心を持っていたことに対して申し訳ない気持ちになった。

また、メティラに来たらぜひ寄りたいと思う。

21:30ホテルに戻り部屋で一人になると盛りだくさん過ぎて不思議な1日が終わった。

8/6(火)
朝8時にダマタラ師が迎えに来るのでそれまでに朝食を済ませパッキング準備していると7時半ごろ電話が鳴る。出ると英語で話す若い女性の声だが発音がいまいち聞き取れないが、どうやらダマタラ師の学生で空港まで一緒に行く人だと分かった。部屋の前で待ちますと言ってたがまだ時間があるのでフロントで座っててもらうよう話をした。

8時少し前にチェックアウトし程なくダマタラ師が来た。車からドライバーさんともう一人若い女性。先ほどの女性と二人が英語を勉強中で道中一緒に行くとのこと。私は後ろの席の真ん中、両サイドに若い女性という状況でこれから数時間過ごす事になった。

連れて行ってくれた場所はマンダレー空港から近い、チャウセ近郊にある発掘中?の寺院だった。地中の埋もれていたのを発見され、屋根で囲い保存しながら博物館のようになっている。中でも印象的だったのは3つの仏像が重なっている仏像、最初の寄進者がいてその上に2つ目、一つ目の顔は2つ目の胸に穴がありそこから見えている、三つ目は2つ目の頭の上に作られていた。なんとも不思議な仏像で、ミャンマーでもこれだけだろうととの話だった。

何箇所かで記念写真を撮りながら表に出ると近くのレストランで昼食、ご飯、ラペットウなどよくあるローカルフードだったが思いの外美味しかった。

12時少し前、マンダレー国際空港に到着、噂には聞いていたが何もないところにポツンと空港がある。軍も使用しているようで戦闘機の離発着が何度かあった。

出発案内のボードを見るとカレーミョー行きフライトは「ON TIME」とあり一安心。

August/2019 ⭐︎その2 ;いつものインレー湖で会う人たち

8/3(土)
快適で慣れたホテルの部屋で目が醒めるのは安心感がある。クーラーも要らず薄い布団をかぶって寝られる快適さも嬉しい。
朝食をすませくつろいでいるとMarLeyさんが到着した。昨年に続き今年も通訳をお願いしている。天気はまずまずそうだったのでインディエン遺跡へ向かう。ここは13世紀ごろにタイから来た人たちの影響を受けて南ビルマとすこし形式の異なる仏塔が建てられと聞いている。今まで何度も来ていたが知らなかったことを説明してもらい改めて時代と時間の流れを感じることができた。しかし古い仏塔は来る度に真新しい姿に変わりつつある。

MarLayさんの話では。ガイドさんたちは綺麗に作り直すのでは無く、古い様式を維持して保存することを意見書の様な形で勧めているが、地元の仏教徒の人たちにとって「古くなった仏塔を新しくする=功徳を積む」の図式があり、思うように進まないそうだ。

乾季はボートを降りるだけでも一苦労だが、今は雨季で人も少なめでひっそりとしている。ここの山頂にお参りして仏塔群で鈴の音を聞くのが楽しみだったが今日は風が弱く少し残念だ。

ホテルへ戻る途中、いつものカヤン族(首長族)さんたちが機織りしているShwe Inn Lay(元Inn Shwe Pyi)に寄ろうとしたが扉が閉まっていた、今回もスカーフとバックを買おうと考えていたので近くの別の店に入る。髪を染めた今風のカヤンの娘が織っていた市松模様に似た柄が素敵だったのでいつ編み終わるか聞くと午後2時ごろとのことなので夕方またくるからと取っておいてもらう事にした。

今日のランチは多分友人のアイデアと思うが、Shwe Inn Thar Hotelでと言われていた。一年ぶりに馴染みのスタッフと1歳になった子供に再会。ランチは伝統的なインダー料理で美味しい。煮魚とトマトサラダ、野菜炒め、豚肉料理そしてデザートはマンゴーとスイカ、パイナップル。

ランチ後は長い付き合いのレチェの仏像ファミリーのところへ。
前もって連絡し、以前私が撮った彼女を含む3人の写真に写っている2人を呼んでおいてくれた(内1人は彼女の妹なので一緒に暮らしている)。

が、よくよく聞くと私のお願いを聞くために仕事を早退したり、妹さんは学校後の塾を今日や休んだりして集まってくれていた。
なんか申し訳ないと思ったが、私は大切な客人とのことで気にしないでとの話で安心した。

ここでもマンゴーをご馳走になり、さらにお土産にマンゴーを沢山もらったので残りの行程で食べたり、お土産にすることにした。

彼女の家にいる間に2回ほどのスコールをやり過ごし、4時半ごろに出てカヤン族のお店へ戻る。キープしておいてもらったスカーフを含め、4点購入、そしてカヤンの人たちを紹介したDVDも購入した。

ホテルに戻るとMarLayさんが用事があって今夜はニャウンシェに泊まるとのことで、職人さんたちのボートに混じって戻っていった。

レチェのファミリーとの付き合いは長い、私を呼び込んでくれた彼女ももう20歳になった。私のことを日本のおじさんと呼んでいる。彼女は2年前、大切な試験を体調崩し受け損ねてしまい、その後家族から勉強して受けるように勧められたが、勉強はあまり好きではないとそのまま、結局今はファウンダウンパゴダ下の生地布・衣類屋で働いている。

8/4(日)
最近、SNSなどでインレー湖の環境問題を目にするようになったが、今年は雨季の割に水位が低い。ここ数年この時期に来ているが少なめに見ても50cmくらいは低いように思える。インレー湖でも環境意識の高いホテル、工房など出来始めているようだったが、アンさんのホテルも部屋の水がペットボトルからガラス瓶に変わっていたし、クボタの浄化槽システムのことが部屋に書かれていた。

朝から降り続ける雨の中、ファウンダウンパゴタへ向かう、中に入って少し経ったら数メートル先が見えないくらいの土砂降りになった。

本堂でお参りすると中央の5体の仏像が大きなケースで覆われていた。なんでも今年のダジャンの時に軍の偉い人がきて、カバーをするようにしたそうで、金箔を貼ることもできなくなってしまい、地元を始め国中から来る参拝客が文句を言っているそうだ。

本堂下のお店に向かうと仏像屋の彼女のお店に着いても彼女がいなく聞くと近くの別店舗にいるので呼んでくれた。カウンダインのお婆ちゃんへお土産のロンジー生地を購入。彼女の見立てが成功するのは夕方にわかった。

雨がかなり降っていたので、ボートより濡れずに済むだろうと昨日行けなかったレチェの僧院へ歩いて向かう。傘をさして15分くらいで着いた。
本堂に入るとお坊さんが色々話してくれた。ここは先日、岩合光昭氏の番組「世界のネコ歩き」出てきた僧院。
ここで、一本の木から彫り出した仏像とそれにまつわる話を聞き、レチェ村に仏像、台座、飾り金属などの職人が多い独特の村の生い立ちがわかった。本堂の隣に彼女の家で寄贈した仏像や台座、飾りなどが置いてあり、ちょうど子供の僧侶がご飯のお供えにきて、写真を撮った。彼女との一緒に記念撮影。

11時少し前、鐘が鳴りお坊さんたちの食事、この後翌朝まで飲み物、飴など以外は食べない彼ら。沢山の量を食べていた。食事は近所の村々が5箇所が交代でお世話しているそうだ。ここには2人のお坊さんと7人の子供たちがいる、子供達は全員パオ族。インダー族の事どもあまりここには居ないとの事だった。
僅かばかりの寄進をするとお坊さんが私の旅の成功、健康、家族の健康を祈ってくれた。

雨も小降りになり、ニャウンシェへ。鈴木さんが最近始めたカフェへ立ち寄る。バナナケーキとドリップコーヒー。鈴木さんの奥さんが最近ここに来てミャンマー語を勉強しながらお店で働いていた。

ここ数年寄っている尼僧院へ行く途中、MarLayさんがボールペン、歯磨き粉、石鹸など寄進するために買い物をしていた。

いつものパラウン族が多い尼僧院へ行くとほとんど誰もおらず、聞くとガイドのMarLayさんが最近入っていた尼僧院ところへ勉強に行っているとのことで我々も向かう。

ここで、少し遅い昼食をご馳走になる、もやしサラダ、豚肉料理、ラペットウ、魚料理などどれも素朴で美味しい。

そして、ニャンウンシュエを後にカウンダインへ向かう。

ボートのスクリューの調子がイマイチとカンカンしばらく叩いていたがほどなく出発、この頃になると雨はすっかり上がり薄日も差してきた。
カウンダイへ着くと少し歩いておばあちゃんの家に、奥の家に近所の友達といて。
去年来た時に聞いていた50歳くらいの息子は4ヶ月前に亡くなっていた。酒の飲み過ぎで肝臓を患い結局母親より先に逝ってしまった。

彼女は元気で足が少し痛い以外、目も耳も頭も元気と自分で話していた。
近所に住む娘たちに自分が作った甘いお菓子やもち米ご飯(赤飯のような)を売ってもらいお金を稼いでいるそうだ。元気で頭もよく働いていて来年90歳になるも、また会いにこれるだろう。

ファウンダウンパゴダのお店で彼女の見立てで買ったロンジーの生地をプレゼントすると好きな色と柄だととても喜んでくれた。彼女の見立てが良かった事に感謝。

夕方、ホテルに戻り、裏手のミニンゴン村へ写真集Myanmarの表紙の子に会いに向かった。日本で買ったお土産を渡して家族と話をした。去年建て始めていた家は外が出来上がり、内装を作っているようで、もう新しい家に住んでいた。
子供達は少し緊張している感じもしたが、渡したお土産を取り出して10色ボールペンセットや可愛いようなシール、消しゴムに喜んでいた。私の写真集は近所の人たちも観に来るようで、これも私とこのファミリーの縁だと思っている。

話の中で、去年ここの家を探すのに手伝ってくれた、名物姉妹?の妹さんが乳がんで最近急逝したと聞いた。アンさんと村の人たちが病院など色々面倒を見ていたそうだ。ナンパンの病院で息を引き取った。

一人残された姉とホテルに帰る途中、会ったがMarLayさんはだいぶ前から知り合いだったようでショックを隠せない様子だった。

ミャンマーに来るようになって13年になるが、このような突然の別れの話は何回かある。

ホテルに戻り夕食でMarLayさんと色々話をした中で、仏像屋の彼女が将来やりたい仕事がわからないとな話いたそうで、心配していた。今日の別れ側に電話番号など伝えて、何かあれば相談に乗るようなことを話していたのだろうくらいは私も予想していたが、MarLayさんはもっと具体的に彼女のアドバイスなどしてくれていたようだった。

やりたいことがあれば、色々は伝手や縁を使って紹介などできるかもしれないとのこと。そこまで話をしてくれていたのは私も感謝だった。

明日は朝からカロー経由でメティラだ。今回、この先の予定がありインレー湖の滞在が短くなってしまったが会いたい人たちには会えたし話もできたので充実した滞在になった。

ミャンマーに来るようになり今回ほど異動が多いのは初めて。それが明日から始まる。