August/2019 ⭐︎その4 ;カレーからチン州にて

8/6(火)
マンダレー発、カレーミョー行きAIR KBZ K7226便はほぼ定刻に離陸した。今回は景色を見たかったのでチェックイン時に指定された通路側からCAさんに頼み窓側の空いている席に移動させてもらった。

雨季真っ只中の大地は褐色に湿っている。しばらく行くと大河チンドウィン川が蛇行しながら流れていた。ところどころ河岸に小さな集落があるが浸水しているように見えどこまでが川なのか分からない。そして飛行機の進む方向はインドまで続くアラカンの山々が折り重なって見える。

これまでミャンマーへ十数年通っているがシャン州インレー湖とヤンゴン以外ほとんど訪れていない。今回、カレーより入りチン州へ向かうに至るにいくつかのキッカケがあった。

インレー湖カウンダイン村のおばあさんに日本兵の話を聞いたこと、井本勝幸氏の日本兵遺骨調査を知り直接話を聞けたこと、NHK-BSの番組「戦慄のインパール」、クラウドファンディングで支援した茂野氏の映像作品「The Ancestors Memories」、ビルマ戦史研究家遠藤美幸さんの講演、鶴ヶ島で今泉清二さんとの話お聞いたことなど。特に今泉さんはインパール作戦から帰国しビルマ奨学金を設立しミャンマーと日本の関係に大きく貢献し、それが2020年東京五輪ミャンマーホストタウン鶴ヶ島市に繋がっている。

私も映像や本からビルマ戦線、特にインパール作戦は多くの書籍が残されており多少なりとも知識は得ていたが一度、現地に行ってみようと考えるようになった。8月はインパールで大敗し敗走するなか、食糧無くマラリアやアメーバ赤痢、脚気などで苦しみ、戦闘より餓死病死が増えていた時期になる。

カレーミョー空港に着いて飛行機を降りると思っていたより暑い。マンダレーから登った感覚だったがそうでも無いようだ。空調のない到着ロビーらしきところでイミグレーションを済ませて荷物を待っていると今回、案内してくれるマウンさんが来てくれた。

ホテルにチェックインしてから近くのショッピングセンターで傘を買って夕食まで休息。しかし上の階のカラオケがうるさい。聞くと夜の10時くらいまでらしく、夜中は静かになると聞いて安心した。

夕食はホテル裏手の小ぎれいなレストラン、味はまずまずだが店内が蒸し暑い。一応クーラーはあるがあまり機能していないようだった。ホテルに戻るとまだカラオケが続いていたが10時すぎ、ピタッと止んだ。頼りないがお湯が出るので髪を洗い、体を洗い明日からに備え早めに就寝。

 

8/7(水)
ホテルを9時に出発、街中はバイクが多いが町外れの大学を過ぎて登り坂になるとバイクも車も減ってきた。そして少し走るとチン州に入った。特にチェックポイントも無い。マウンさんに聞くと2012年以前はチェックポイントが沢山あり、パスポートやビザのコピーがたくさん必要だったと話していた。

山を登り始めると今回用意してくれた車、ランクルPRADOが威力を発揮する。雨も霧もはげしくなり10m先も見えない。クラクションを鳴らしながらの走行、そんな中多くのバイクとすれ違う。2人乗り、3人乗り、バイクの幅の3倍くらいの幅の荷物を満載したのもいて驚く。1時間くらい走ると車が止まる、この近くに大戦中に爆弾で大穴が空いた場所が残っているとのことで傘を差して山道を少し登る。昨日買っておいた大きめの傘が役に立つ。

その場所に着くと大きな穴が空き、時間が経ったため多くの草木が茂っていたがそれでも大穴の形はよく分かる。このあたりでも前回の調査で遺骨が3体見つかったそうである。

車に戻り、15分くらい行った道沿いの小さな村でイギリス軍の砲弾の先端部分が残っている家に寄ってた。ここの主人は近くの山々に入っては戦争の遺品などを集めいるそうだ。イギリス軍の砲弾は離れの中にあったが、母屋に入ると今度は日本軍の砲弾の残骸、恐らく擲弾筒の一部のような形をしていた、それと穴の空いたヘルメットが2つ。恐らく銃弾を受けて空いた穴だと思うが、即死だったのだろう。銃剣の先のようなもの、爆弾の破片、破片といっても1kgくらいありそうで、これが爆裂時に飛んできたらひとたまりもないだろう。本の中で爆裂片を足に受けて動けなくなったなどと記述されていたが実際を見ると恐ろしくなる。

今回の目的地ティデイムに着くと少し遅めの昼食。暖かい麺料理とジャスミン茶が体にしみる。

ゲストハウスにチェックインして一休み。目を閉じると今日見てきてたものが頭の中に鮮明に蘇る。ゲストハウスは屋上に上がることができ周囲を見回す。天気が良ければケネディピークが正面に見えるそうだが、雲と霧で見えない。

しかしミャンマー国内に不釣り合いな名前に山、イギリス統治時代に付けられたのだろうか?

部屋にいると土砂降りの雨、ゲストハウスが展望台のようなところなので傘を差して撮影へ。夕食へ行くのに18時に約束していたので少し前に外に出ると雨が上がり山あいに霧が残り幻想的な景色にしばし見とれカメラを持ち出し撮影した。

明日はさらに北上する予定だ。

 

8/8(木)
7時半にゲストハウスを出発し近くの食堂で朝食。牛肉を使ったカウスエで美味しい。ここのキリスト教徒が多いのかメニューに牛肉がある。8時過ぎ、うっすら霧の中出発、ティディム街道を北上するして30分くらいでマニプール川が現れる。茶色く濁り雨季の様相で流れが早い。インドのマニプール地区、その中心がインパールだ。

撮影しながら進むと重機を乗せたトラックが急な下り坂のヘアピンカーブで横転し重機ごと横たわっていた。舗装路を塞いでいたが路肩からなんとか通過。
しばらく行くと日本軍の手榴弾を保管しているおばあさんにあった。そのあと少し先の家で日本兵の名前が入った飯ごう、水筒、銃剣の先を保管してる家に連れて行ってもらった。飯ごうに「イナバ」の文字、所々小さい穴が開けられていたのは炊くときの調整用かと想像できた。

手榴弾見た目以上に重い、これが破裂するくらいの火薬を使うのかと思うとその威力は凄まじいい、映画などでしか見たことないが手に持つと色々な重みを感じる。

 

車でさらに北上しシンゲルで村の人が加わり日本軍の戦車の残骸へ、

林に入るとき近くの水たまりにバッファローが行水していて、我々に驚いて一瞬緊張したがすでにシンゲルのガイドさんは先に進んでいた、しかしぬかるみがひどくて足元が滑る。途中バランスをくづし尻もちをついてしまい、カメラが半分泥に埋まった。防塵防滴なので壊れはしなかったがファインダーの泥を落とさないと撮影がままならない。

戦車の残骸で、本体のように見えるが想像よりはるかに小さい。山の中に運び込む戦車だから小型なのだろう、戦争映画に出てくるような大きさより半分くらいに見える。

朝から雨に降られず、時より日も差していたがこの頃から遠く雷鳴、そしてスコールが降り始めた、急いで車に戻るが、気づくとシャツも泥だらけだった。
スマホで場所を確認するとインド国境まであと10キロくらいのところだった。
帰り道はスコールと霧だった。75年前はもっと雨が多かったと聞いている、そして想像以上に寒い。本当に想像できない状況で生きて帰った先人たちがいるのが不思議なくらいだった。明日の夕方、ヤンゴンへ戻る。

 

8/9(金)
夜中、お腹の様子が怪しくなり目がさめる。思い当たるのは昨日の昼食だ。

どこの村かもわからないが入った食堂で麺料理なら比較的安全だろうとマウンさんの配慮もあり食べたが、口に入れたとき妙な違和感を感じた。そこでやめて大人しく買ってあったパンで済ませれば良かったのだが、スコールと寒さで暖かい料理を食べてしまった。

朝、マウンさんに連絡すると薬を持ってきてくれて、これが効いたようで治まりつつあるのが助かった。

予定通り8時にチェックアウトしカレーワへ向かう。最終日はマウンさんからリクエストを聞かれ私は「チンドゥイン川へ行きたい」と伝えたところカレーワへ向かうことになった。カレーミョーまで戻り少し早いランチ、ここでも私は安全そうな麺料理を軽く食べた。

カレーミョーから1時間と少し、カレーワに2年前にリニューアルされた大きな橋に着いた。

チンドゥイン川にかかる立派な橋だ。車道の両側に細い歩行者用の通路があった。車で橋を渡り、戻るのは歩くことにした。眼下に茶色く濁った大河がゆっくりと流れている、ゆっくりに見えるが浮遊物の流れる様子を見ると見た目以上に流れが早そうだ。

75年前、白骨街道を必死の思いでチンドゥイン川までたどり着いた日本兵は満足な船もなくここを渡って行ったと本に書いてあった。目の前の景色を見ると現実味を感じない。
ここではなくてもう少し条件の良い場所を探したのだろうが流れる水量は変わらない。今日はたまたま天気が良く暑かったが大雨の中、しかも夜の渡河はやはり想像を絶している。
カレーミョに戻りチェックインまで時間があるので喫茶店に入り少し休憩。15:30、空港へ行きチェックインを済ませた。心配だった雨季の夕方便だが飛んでくれそうで一安心。
フライトは拍子抜けするくらい定刻出発、定刻着だった。

ヤンゴン空港でこちらに駐在している友人と食事をして私はいつものパノラマホテルへ。
ホテルのフロントでチェックイン。ドアマン、ポーター、フロントの人も私を覚えていてれて挨拶してくれたのは嬉しい。年に一度か二度しか来ない日本人を覚えているのはありがたい、
お腹もほぼ落ち着いてきた感じで一安心。

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