雨季のチンドウィン川、このときは薄日が差す穏やかな姿を見せていたが1944年、ここで多くの日本兵が力尽きた。
インパールを目指し兵器、物量で圧倒する英印軍に敗れ2000m級の山々を倒れ行き仲間を白骨街道に残したどり着いたチンドウィン川は3月に渡った時と全く違う姿ををしていた。場所によって川幅は600mを超え流れも早い。追撃する敵から逃れるためにここを渡るしか無い。意を決して夜中に渡河を試み体力を消耗していたものは流れに贖えずあっという間に下流に消えていったと生還した方々が残していた。
2019年8月、雨季のチンドウィン川を訪れた。昨夜はこの時期らしい豪雨が降り続いていたが朝から雨が上がっていた。数年前に立派な橋がかかり今は車で簡単に渡れる大河。私は友人に頼み橋を渡ったあと車だけ戻してもらい私は500mくらいの橋を歩いて渡った。その端の上から上流方向を撮った一枚だ。穏やかな流れに見えたが橋の中央まで来て見下ろすと流れが早かった。
当時、体力の限界を超え、マラリヤや赤痢が蔓延し満足な船も無くどうやって渡ったのか想像すらできなかった。
この後、カレーミョーからヤンゴンへ向かう飛行機の窓からチンドウィン川を見ていたがところどころ川から水が溢れ、どこまでが川なのか分からない場所があった。そして右に左に蛇行する様子は巨大な蛇のようにも見えた。
彼女はひ孫に日本人の名前「KIMURA」を付けた。
カレーからヤンゴンへ戻る日、午後のフライトまで時間があったのでカレワ方面に向かう途中のGyi Kong村を訪れた。そこに暮らす94歳のDaw Hla Kyiさんの家へ行ったが、昨夜眠れず体調が優れないとのことだったが風通しの良い雨軒下の寝床から起き上がると年齢は重ねているが強い眼が印象的だ。彼女は数年前に生まれたひ孫に「Khimula Chibu」と名付けた。「Khimula」とは日本人の名前「KIMURA」を意味している。戦争中この近くに日本軍の病院があり400から500人くらい駐留していたそうで、日本兵の「KIMURA」さんと親しかったそうだ。親しかった内容を聞こうしたが「もう良く覚えていない」と嘘か本当かわからないような答えだった。それまでの受け答えから戦争中の記憶もしっかりしていたから、きっと覚えているのだろうが。。
彼女がひ孫に日本人の名前を付けたことは自分の人生を考えたことだったのだろう。いつかこの名を持つ子が大きくなったら会ってみて、名前を気に入っているか聞いてみたいと思う。
作品のプリントが終わりギャラリーへ納品済ませ写真展の準備はひと段落しました。次は展示当日ギャラリーの壁に掛けられた姿で再会することになります。
展示中ギャラリーに置こうと思い全てでは無いですが写真にテキストを添えようと書き始めています。撮影中毎日メモを残していたので、それを読み返しています。
撮影とプリントを通して改めて思うのは「このようなことは時々でも誰かが掘り起こさないと埋もれてしまう」ということ。戦後間もないころは帰還された方々が現地を慰霊に訪れ、書籍に残したり歴史を記してきたが戦後75年も経つと、現役で当時を語る方々は少なくなり、次の世代が残していかなかれば歴史の中に埋れていってしまうだろう。
時代は常に流れ過去は埋もれていくことは自然なことだが、戦後の平和な時代に生きてきた世代は未来の選択を誤らないために過去の事実を知っておく必要があると思います。特にミャンマーと縁を感じて関わりを持っている我々は、未だ現地に多くの英霊が帰国を果たせずいることや現地の人たちを戦禍に巻き込んだことなど忘れてはならないと思います。
写真はカレーミョーからティディムに向かう途中、Fort Whiteと呼ばれている激戦地のひとつです。四方の山々を見渡せるため陣地として重要だったのでしょう。今は人々がピクニックに訪れて写真を撮ったりお弁当を広げたりしています。十字架が立っているのはこのあたりはキリスト教徒が多いためだと思います。標高が1500mくらいあるため雨季に来た時は雨と霧で視界が悪くとても寒かったですが乾季は遠くの山々まで見えて綺麗なところでした、景色は日本の信州の山々に似ています。日本を遠く離れ、中には中国から南方を経て何年も帰国していない日本兵は気候や景色から祖国に想いを馳せていたのだろうと思いました。
写真展案内葉書(DM)に選んだ写真についてです。
DMの写真は写真展のメインイメージに位置付けになります。
この写真を撮影したのは今年の3月、インパールに続くTedim Road沿いにあるインド国境が近いKan San Zang 村で出会った少年です。彼が頭に載せているのは太平洋戦争で日本兵がかぶっていたヘルメットです。全体が赤黒く錆びていますが形はしっかり保っています。彼が近所の山で拾ったそうで今は子供の遊び道具のようになっています。
戦争中、日本軍は半年くらい駐留していてたそうでその間、毎日朝晩イギリス軍の飛行機がやってきて爆弾を落として毎晩、日本軍と村人で道路など壊れたところを治す日々だったそうです。当時村には300~400人暮らしていましたが何人くらいが犠牲になったかは分からないそうです。そのような状況だったので戦後間も無い頃はヘルメットで遊ぶようなことは無かったと思いますが月日が経つ中で子供が遊び道具にしても違和感が薄くなっていったのでしょう。Tedim Road沿いの村々では今でも遺留品や遺骨が出てくることがあり、どこかの家で保管されています。保管している理由を聞くと「いつの日か遺族が取りに来るかもしれないから置いてある」と答えてくれた村人が居ました。戦後75年も経ちどこまで本気で日本人がここに来ると思っているのか分かりませんが、そうしてくれていることは日本人の1人として感謝の念を伝えることしかできませんでした。
8月の写真展はミャンマーの西部、インド国境に面したチン州で撮影した写真を展示します。2005年からミャンマーで撮影を始め2017年の展示・写真集まではシャン州のインレー湖周辺と最大都市ヤンゴンで撮影し発表してきました。
それが今回、チン州を訪れたのはミャンマーで撮影を続けるなかで、偶然とも必然とも思えるきっかけや出会いがありました。例えば、このようなことがありました。
2014年 インレー湖畔カウンダイン村のDaw Ser Zuさんと出会い戦争当時の日本兵の話を聞く
2017年 戦慄の記録「インパール」 NHK BS放送を観てあまりに過酷な状況を知る
2018年 6月「戦争体験」を受け継ぐということ』著者、遠藤美幸さんの講演を聴く
2018年 9月 ミャンマーの少数民族和解に奔走、ビルマ戦線の日本兵遺骨収集の活動を引っ張っている井本勝幸さん講演を聴く
2019年 4月 インパール作戦から生還しミャンマーの学生を日本へ留学する奨学基金を設立し日本とミャンマーの関係を作られてきた鶴ヶ島の今泉清詞さんの宅を訪れ話を聴く
インパール作戦は「補給を無視し、冷静な敵情判断に乏しく無謀な作戦」と語られることが多い。前述のドキュメンタリー番組やネット検索すればそう思える内容がたくさん出てきます。私はもう少し深く知りたいと思い本を買ったり借りたりして読み続けるなかで、実際どのようなところなのだろうか?
今泉さんを始め帰国した多くの方々が現地の人たちの優しさに助けられたとあるがどんな人たちが暮らしているのだろうか?
インパール作戦は大まかに3つのルートから攻略を目指したと書かれていて、今回は縁があり第33師団(通称弓部隊)が南から目指したルート「Tedim Road」を訪れました。そして8月と3月を選んだのは意味があります。
3月は作戦が開始され3週間でインパールを攻略する目論みで遥かなインパールを目指し2,000m級の山々が幾重にも重なるアラカン山系を攻め上って行った時期です。しかし3ヶ月以上経っても誰ひとりインパールに辿り着くことが出来ず突撃を繰り返すたび英印軍の圧倒的な銃火器に大敗を重ねていました。
そして退却の始まった7月から1ヶ月が経ち、8月は戦死より病死餓死が多く彼らは自らの運命を呪いながら「靖国街道」や「白骨街道」と退却路を呼ぶようになった雨季の最盛期になります。
これらの時期に訪れて地形、気象状況など想像して少しでも当時を感じたい、今ならまだ当時を知る現地の人たちに会い話を聞けると知ったことも背中を押してくれました。
写真は8月に車の移動を躊躇するほどの激しい雨が降り出し肌寒い中見つけた食堂でインスタントラーメンのようなものを食べてたときに窓から見えた学校。このあたりの子供たちはこの程度の雨では休まないと案内してくれてた友人が話していました。