8月の写真展はミャンマーの西部、インド国境に面したチン州で撮影した写真を展示します。2005年からミャンマーで撮影を始め2017年の展示・写真集まではシャン州のインレー湖周辺と最大都市ヤンゴンで撮影し発表してきました。
それが今回、チン州を訪れたのはミャンマーで撮影を続けるなかで、偶然とも必然とも思えるきっかけや出会いがありました。例えば、このようなことがありました。
2014年 インレー湖畔カウンダイン村のDaw Ser Zuさんと出会い戦争当時の日本兵の話を聞く
2017年 戦慄の記録「インパール」 NHK BS放送を観てあまりに過酷な状況を知る
2018年 6月「戦争体験」を受け継ぐということ』著者、遠藤美幸さんの講演を聴く
2018年 9月 ミャンマーの少数民族和解に奔走、ビルマ戦線の日本兵遺骨収集の活動を引っ張っている井本勝幸さん講演を聴く
2019年 4月 インパール作戦から生還しミャンマーの学生を日本へ留学する奨学基金を設立し日本とミャンマーの関係を作られてきた鶴ヶ島の今泉清詞さんの宅を訪れ話を聴く
インパール作戦は「補給を無視し、冷静な敵情判断に乏しく無謀な作戦」と語られることが多い。前述のドキュメンタリー番組やネット検索すればそう思える内容がたくさん出てきます。私はもう少し深く知りたいと思い本を買ったり借りたりして読み続けるなかで、実際どのようなところなのだろうか?
今泉さんを始め帰国した多くの方々が現地の人たちの優しさに助けられたとあるがどんな人たちが暮らしているのだろうか?
インパール作戦は大まかに3つのルートから攻略を目指したと書かれていて、今回は縁があり第33師団(通称弓部隊)が南から目指したルート「Tedim Road」を訪れました。そして8月と3月を選んだのは意味があります。
3月は作戦が開始され3週間でインパールを攻略する目論みで遥かなインパールを目指し2,000m級の山々が幾重にも重なるアラカン山系を攻め上って行った時期です。しかし3ヶ月以上経っても誰ひとりインパールに辿り着くことが出来ず突撃を繰り返すたび英印軍の圧倒的な銃火器に大敗を重ねていました。
そして退却の始まった7月から1ヶ月が経ち、8月は戦死より病死餓死が多く彼らは自らの運命を呪いながら「靖国街道」や「白骨街道」と退却路を呼ぶようになった雨季の最盛期になります。
これらの時期に訪れて地形、気象状況など想像して少しでも当時を感じたい、今ならまだ当時を知る現地の人たちに会い話を聞けると知ったことも背中を押してくれました。
写真は8月に車の移動を躊躇するほどの激しい雨が降り出し肌寒い中見つけた食堂でインスタントラーメンのようなものを食べてたときに窓から見えた学校。このあたりの子供たちはこの程度の雨では休まないと案内してくれてた友人が話していました。

3月下旬ごろから世の中が新型コロナに染まりはじめ、もうコロナ以前に戻れないのでは?と思ってしまうくらい様変わりしたように思える。
4月に父が他界し6月初めに49日法要と納骨を済ませ、ようやくひと段落ついた感はあるが気付いたら6月がもうすぐ終わる。他界した後、さまざまな手続き、申請などが必要になりあらためて人一人に対して社会の仕組みがこれだけ関与していることを実感した。ここでもコロナ禍の影響で役所関係も窓口が縮小され普段以上に時間を要することがあった。
元々今年は東京オリンピックがあり、私はその期間中の8月に東京中野のギャラリー冬青で写真展を開催する予定になっていた。当初はオリンピック開催中の東京で写真展をしても観に来る人がいるのだろうか?
しかも今年も猛暑になりそうな長期予報で例年より人が来ないのでは?と心配していたが知人に話したら、そもそもギャラリーに写真展を観に来る人とオリンピック中心に過ごす人は「別の人たち」だから関係無いと話していた。
しかし、コロナでオリンピックは一年先延ばしになり、写真展は予定通り開催予定となっている。心配されている第2波が拡大し再度「緊急事態宣言」でも出ない限りは大丈夫だろう。
写真は阿佐ヶ谷にあるちょっと大きめの神社で撮った一枚。たまたま結婚式を済ませた新郎新婦とその親族さんに遭遇。コロナ禍の状況でいろいろ苦労があったのだろうと思うが幸せそうに見え、久しぶりに「晴の日」に触れた気がした。緊急事態宣言が解除され、都道府県を跨ぐ移動自粛が解除になり、数ヶ月ぶりに都心へ出掛け、以前からお世話になっている方に会い8月の展示に向け弾みがついた。今回もミャンマーで撮影したモノクロ銀塩プリントを展示する。今は展示用プリントの追い込み中だ。
写真展の詳細は後日ここやSNSにアップしていく予定。

今日で3月が終わる。
3/6(金)の深夜に羽田を立ちバンコク経由でマンダレーからミャンマーに入り3/15(日)の早朝成田に戻ったのが遠い過去のようにも思える。あの時はミャンマーは新型コロナ感染者はゼロで欧米もまだ静かだったが帰国後またたく間に世界中で感染者が一気に増えている、日本の東京も大規模感染直前なのかもしれない。
そして、東京オリンピックはひとまず1年先延ばしになった。今年8月は東京で写真展を予定していてオリンピックと重ならなくなったのは良かったと思っている。さすがに8月にはコロナもあるていど終息していることを願っている。
現在、世界中が鎖国のような状況、ミャンマーもコロナ感染者が10人を超え、初めての死者もでたとニュースに出ていた。私が数日滞在していたチン州は街間の移動が大幅に制限されている。私の渡航やコロナ感染が1週間ずれていただけで相当違っていただろうと思うと今回は「運が良かった」だけなのかもしれない。
写真はカレーの郊外にあるパゴダ、広い敷地に仏塔の他様々なコーナーが有った。縁起の良い白象は分かるがキリンや魚も有り。この他にも不思議なものがいくつかあった。
1日も早くコロナ感染が終息し普通に海外に行き来できる日が来ること願わずにはいられない。


年が明けて気づいたらもう2月の後半へ。
年明けから新型コロナウィルスが中国で感染が拡大しそれが日本を始め各国に広がり始めている。夏に東京オリンピックを控えどんな一年になるのだろうか。
その、オリンピックと重なるが私自身、8月に写真展を予定している。
日本でも感染ルートのはっきりしない日本人間の感染が広がり始めもうどこで感染者がでても不思議でない状況だ。こうなると免疫力を高め、手洗いなど自己防衛して行くしかない。
あと少し前に富士フィルムのデジタルカメラ新製品のプロモーション動画をめぐり公開直後から批判が殺到し動画削除と謝罪と言う状況になっている。写真作品制作する自身からすると一連の状況は考えさせられることは多くある。写真家は自分の写真に責任を持ち、それを商業的に使えうとどのようなことになるかを含めて考えていかなけれならないのだろう。
今回、富士フィルムのプロモーションに出てきた作家の方は名前と作品は存じていたが面識は特に無く、人伝に聞いていた程度だった。問題になった動画を見たが、まず感じたのは写っている写真そのものよりも「撮影スタイル」が問題に思えた。私自身スナップ撮影もするが少なくとも相手に「不快感や恐怖感」を持たれる撮影はしないようにしているつもりだ。
ここ数年のプライバシーや個人情報保護など過剰な気がしないでも無いが、それも含めて現代社会なのだと考えねばならない。
写真は先日訪れた湯島聖堂、受験シーズンとコロナ問題で減った気がする観光客。


今年は例年になく騒ついた感じの否めない一年のスタートに思える。
12月21日のゴールデンバガンMyanmarレストラン開催のランチセミナーにお越し頂いた皆さまありがとうございました。
今回の話を頂いたとき正直、年末の忙しい時期にどれだけの人が来てくれるのか心配だったが定員の30人近い申し込みがあり結果として26人の方々に話を聞いて頂きました。

話す内容はここ1ヶ月くらい考えてスライド30枚にまとめて準備をしてきました。2005年に初めて訪れたきっかけにから今に至る経緯、写真を通して自分が感じていること考えていることなど。日本人である自分が他の国で写真をとり作品作りを続ける理由、私が思うミャンマーの心配事など話をしました。
人前で話す経験が多いわけでも無いので余裕が無く無駄に早口になったり説明が分かりにくかったりしたと思いますが、終わった後の懇親会では皆さんから多少のお世辞分を引いても私の予想以上の反応で一安心しました。しかし考えている事と話をすることは別モノです。

写真は半ばの写真集「Myanmar2005ー2017 」を説明しているところ、お店のプロジェクターを使わせてもらい、店内の壁に15点くらい展示させてもらいました。併せて写真集を販売させてもらいましたが今回は買ってくれた人に写真集に載っている写真をプリントした布バックをプレゼントしようと用意しました。ミャンマー祭りの時もありましたが、嬉しいことにこの布バックを追加で欲しいという方が居られました。
最後の写真ランチセミナーを企画しているモモさん。私が長年訪れているシャン州出身の方ですが、同じシャン州でも北部のラーショーの近くが出身で長年日本に暮らし日本語も堪能でいつも明るく元気な女性です。
今回が14回目ランチセミナーで毎回興味深い講師の方を招き貴重な機会を作ってくれています。このような場に講師として誘っていただきとても感謝してます。
私はここの「ひよこ豆の炒飯」が好きで時々食べに行っています。ミャンマー料理にも「タミンジョー」という炒飯があり現地でもよく食べていますが、この「ひよこ豆の炒飯」は一番です。ミャンマーごで「タミン」はご飯、で「ジョー」は薬とか揚げる意味があり、「焼き飯」になり日本語と同じような呼び名になっている。
