写真展に向けて[1]:2017年12月に開催

2017年12月にギャラリー冬青ではおそらく最後になるだろうの写真展がある(ギャラリー冬青は2018年末でクローズになる予定と言われているため)。

2013年7月に写真集「Thanaka」の出版と合わせてギャラリー冬青で初めての写真展を開催した。

その時の展示がギャラリーに認められて、2015年12月に2度目の写真展を開催し、そして今年の展示につながっている。

これから時々、写真展に向けての道のりをここに記していこうと決めた。

数年後、自分自身で振り返った時にこの時期何を考えて、何をしていたか記憶をつなぎ再生出来るように残しておきたい。また、ここを目にした人に何か感じてもらえれば幸いだと思っている。

2013年の展示は写真集「Thanaka」を中心にした展示だった。写真集「Thanaka」は私がミャンマーを初めての訪れた2005年にから2012年に撮影した作品で構成した。撮影はミャンマーのシャン州にあるインレー湖とその周辺。そんな中、2011年にミャンマーの大統領に就任したテインセイン大統領が打ち出した経済開放政策で国が大きく動き出す時期になり、写真集はこれからミャンマーが変わり始める直前をまとめることになった。

2012年以降、都市部ヤンゴンを筆頭に街の様子や人々の暮らしが大きく変わり始めている。12月の展示に向けて変わりゆくミャンマーと変わらないだろうミャンマーを視点に2冊目の写真集にまとめて行きたいと考えている。

昨年末にそれを踏まえ冬青社の高橋社長と第一回目の編集会議に臨んだ。

その時に候補にセレクトしたワークプリントを作成してきた。それもあと1日か2日暗室に籠もれば完了できる目処が立ってきた。

写真はそのワークプリントの一部と、コンタクトシート。

次からは、展示で得たこと、写真集で得たことなどについて書き起こそうと思う。振り返ることで次に繋げるヒントになるだろうし、頭で分かっているつもりでも文字に書くと曖昧な部分がハッキリしてくる。

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薩摩の国

二月の終わりに鹿児島へ行ってきた。

寒い関東を離れ暖かい南国を目指したのだが、意外と寒く体感は地元とあまり変わらない感じだった。それでも食べ物は美味しくのんびり楽しい3日間を過ごすことが出来た。

鹿児島と言えば桜島、鹿児島市内の城山公園展望台からの景色。今回は噴煙など全く見えず静かな桜島だったが山頂付近の形から幾度となく噴火を繰り返し続けている様子は想像できる。もう一つの鹿児島の顔ともいえる西郷隆盛が西南戦争で追い込まれ最後を過ごしたのがこの地だったそうだ。自らの死を覚悟した西郷隆盛もここから鹿児島の町と桜島を見たのかと思うと感慨深い。

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世界遺産「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして登録された集成館と名勝仙巌園、ここも鹿児島で訪れたい場所だった。明治政府を作り日本の近代化の大きく貢献した薩摩と長州、特に薩摩は薩英戦争の後、「敵に学べ」の精神で多くの留学生をイギリスへ送り込み軍事にとどまらず民需や社会インフラに至まで多岐にわたり整備を進めたことは薩摩藩主島津家の先見の明があったのだろうと、ここでは感じることが出来た。

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写真はその御殿で抹茶と和菓子がでるガイドツアーに参加したときの一室。立派なお屋敷の居間から寝室、風呂、手洗いそして外国の要人と会うためのダイニングテーブルセットのある部屋まで解説付きで巡ることができた。入場料を払い見るだけとは違い+600円で説明を抹茶と和菓子までつくのは絶対にお得。ただ残念なのはいずれも撮影は禁止な点だ。

3日目、最後に立ち寄ったのが霧島神宮。空港から近くレンタカーを返すのも都合が良いので最終日の予定に入れていた。

市街地から少し奥に入った場所にあり、鳥居の前に立つと身が引き締まる思いがする。お寺では無く神様の祭られている特別な空間への入り口で何度か感じる感覚だ。鳥居の脇には日本の国歌「君が代」の歌詞にでてくる”さざれ石”があり、ここで流れてきた時間と人々の信仰が伝わってくる。本殿でお参りを済ませ、お神籤を引くと小吉、可も無く不可も無くな結果だが何事も普通が一番。御神木の手前から脇に入ると旧参道「亀石坂」がある。背の高い杉の森を見上げると車で途中まで来られる現在の参道よりこちらを麓から登ってきた方が御利益がありそうな気がした。

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市内から霧島に来る前、知人が教えてくれたビルマ様式のパゴダのある寺を教えて貰ったので寄ってきた。その様子は私がボランティアとして参加しているNPO法人のブログに書いた。

鹿児島は美味しい食べ物も豊富で、薩摩の黒豚、天然鰻、さつま揚げ、地鶏そして桜島の柑橘類・・桜島の道の駅では種類、量ともに豊富な柑橘類があり、店先で選んでいたとき地元の人らしき男性がどこどこの何々さんのきよみオレンジが美味しく、私はいつも買っていると教えてくれた。選択肢の多さで決め手に欠いて居たので即決し「生産者藤崎さんのはるみみかん」を買った。ホテルにもどりさっそく食べると普段地元のスーパーで買っていたものとは別次元の豊かで甘い味におどろいた。

旅先で印象深く残るのはこのような人の言葉だったり、食事に入った店の店員さんが発した些細な情報だったり、2泊しかしていないホテルのフロントの女性が私の名前を覚えて声をかけてくれたりだとか、ガイドブックや旅番組、ネット検索で出てこないところなのだろうと改めて感じた鹿児島旅行だった。

日本はそれ以前の問題?

先日、私が理事として活動しているNPO法人、ミャンマーファミリー・クリニックと菜園(MFCG)イベントで映画上映会を開催した。
上映した映画は「Poverty Inc. 」日本語にすると「貧困組織」「貧困ビジネス」などになるのかもしれない。副題で「あなたの寄付の不都合な真実」とある。

この映画を知ったのは昨年秋、MFCGの代表、Dr.名知が渋谷の映画館で上映されたときにゲストスピーカーとして呼ばれ参加したときだった。その時の様子はこちらMFCGのブログに書かれている。

映画についてはサイトにレビュー含めて詳しく書かれているが、寄付をする人たちからみれば良かれと思ってしている寄付が現地の人たちを苦しめている不都合な真実がいくつかの実際の現場やそこに関わる人たちのストーリーで構成される約90分のドキュメンタリー映画だ。

映画の中で出てくる話で思い出したのが、自分が学生の頃、丁度198o年代、飢餓に苦しむアフリカの子供達を救おうを旗印に欧米の歌手が集まり曲を作り世界中に配信していた。私はそれを見たときに「貧しい不毛の大地アフリカ」が頭の中に刷り込まれたように思える。

最近日本では、街頭や雑誌、TVCMでアフリカのやせ細った子供を使い寄付を呼びかけているのを目にする。「1日コーヒー一杯、あなたの支援が子供達を救います」
一方、ネットなどで検索すると巨大なNGO組織が多額の資金を政府や国際機関の援助金や寄付などで集めその使い方が叩かれたりしているのも見かける。

政治情勢、異常気象、天災などによる貧困に対して支援が必要なのは誰でも分かることだが、この映画で出てくるハイチでは大地震から数年経っても大量の支援米が送られ続ける実態などをみると考えさせられ「支援を一生受け続けたい人など居ない」のセリフが頭に残る。

私が12年前から撮影に訪れているミャンマーでMFCGは現地の人たちの自立を目指して活動している。これは映画でも出てくる「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」現地目線に立つ支援だと信じている。

昨年、MFCGを支援してくれている人たちにインタビューする機会があり、MFCGを支援先に選んだ理由を聞いたとき多くのひとから「私が支援しているお金が現地でどのように使われ、役にたっているのかが見える」と答えてくれた。
私は今回のイベントの最後の挨拶で「寄付の使われ方を考えたとき、MFCGを有力な候補として是非考えて欲しい」と話をした。映画の示す「不都合な真実」に対する答えのひとつにはなっているはずだ。

ただ、元々日本人は寄付やボランティアに対する意識が極めて低いと言われている。私自身も振り返ればMFCGに参加する前は震災などおこれば単発寄付をする程度で継続支援や自分の時間を使って支援とは無縁だった。
キリスト教などは施しの精神があると聞くし、欧米で事業などで成功すると社会貢献活動をする有名人の話も良く聞くが日本では希だ。

MFCGが活動しているミャンマーは寄付指数が3年連続世界1位となっている。英国のチャリティー団体「Charities Aids Foundation」が全世界140カ国で寄付行為やボランティア活動についての調査を行った結果だそうだが、日本は114位。

この映画を見ると「寄付をしない理由」になってしまう可能性もあり、見方によっては日本という国はこの映画が意図することに対する議論の土俵にまだ登ることすら出来ないのかもしれない。

写真は日本の支援で出来たヤンゴンの路面電車跡、開業わずか半年で休止してしまった。理由は利用者が少なく採算が取れないとのこと。このような場所ではそうなるのは多くの人が分かっていたと思うのだが。。

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久しぶりに新品を購入

使用頻度の少ないレンズやカメラバックなどを売却し軽い三脚を購入した。

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作品制作を考えたとき、何にお金をかけるのが一番正しいかの答えだ。何となく興味だけでカメラやレンズが増えても結局何も生まないことは数年前に自分なりに理解した。

国内で車や電車で移動するイベントなどで撮影するときは大きくて重い三脚で構わないが海外に持って行くときはずっとGitzoの1型4段を使っていたがそれなりの重さがあり、どうしてもホテルに置いて行きがちになり、いざというときに手元に無い状態は何度となくあった。

機材(荷物)が軽くなればそれだけで足も軽くなり撮影範囲が広がり、失敗も減る。そのことは年々高騰する銀塩感材の節約にも繋がる。などなど、もっともらしい理由をつけてみたが、結局年齢と共に重いが億劫に感じているだけなのかもしれない。

三脚を新品で買うのは10数年ぶり、三脚にも取説があるのを思い出したし、使っていると必ず緩むネジをしめるレンチも安っぽく無いモノが付属している。

今回雲台は今までのをそのまま使うことにしたのだが、今時の雲台はクイックシューが当たり前なのか。。。私が主に使用しているRolleiflexには専用のクイックシューのようなアクセサリがあるため雲台はシンプルだ台だけのほうかありがたい。しかし軽いのは助かる。

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ヤンゴンで写真について講演と交流

今年の8月、インレー湖の撮影を終えてヤンゴンに戻ったときに2014年以来の付き合いのあるZaw Minさんと新たに友人になったU Than Myint氏、Ko Kyaw Thu氏と私の撮影や作品作りの話をした時に「ミャンマーで写真を学び始めてた学生に対して講演をしてほしい」と話が出た。

Zaw Min さんは10年くらいの日本在住経験が有り日本語が堪能で、ミャンマーで旅行社を経営しフォトグラファーとしても様々な活動を展開し日本とミャンマーの架け橋となっている1人だ。彼は今年の夏、北海道東川で写真甲子園を見ていつかミャンマーでも開催したいと思っていると語り始めた。ただ現在ミャンマーの高校に写真部は無い、正確にはクラブ活動が皆無でそこから始める必要がある。

そこで彼は写真甲子園のイベントのひとつアジア枠に来年夏、ミャンマーの高校生を送り込み、きっかけにしたいと考えている。
彼はフォトグラファー仲間に声を掛けボランティアで毎週水曜と土曜にヤンゴンのアート高校で写真指導を行っている。アート系の高校で絵画専攻の生徒の中から写真に興味のあるメンバーを集めたそうだが、予想以上の手応えを感じはじめていると聞いた。ただ学校にカメラの備品は無く生徒が自前で用意するのは困難なのは容易に想像がつく。彼は自らを含め仲間に声をかけ以前使っていたカメラを集めて生徒たちのために持参している。その考え、志を聞き私も自宅で眠っていたオリンパスのミラーレス一眼を9月に彼が来日した際に渡し、今回の訪問に備え日本の友人たちの協力のもと5台のカメラを寄贈することができた。

会場は、高校内の講堂で演劇や伝統音楽の演奏ステージがあり客席もあるりっぱな建物だ。講演内容はZaw Minさんと事前に連絡を取り詰めて来た内容に沿ってプレゼン資料を作り彼の通訳で進めた。

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ミャンマーではもうフィルムも印画紙も薬品も手に入らないと聞いた。彼も環境が許せばモノクロ銀塩プリントを再開したいと話していたいが厳しさは日本の比では無い。

そのような状況のなかでこそ、私のようなスタイルで彼らの祖国、ミャンマーで撮影し作品作りを続けている話は意味があるのだろう。

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私は自分がミャンマーに来たきっかけ、作品作りを決意した1枚、タイミングや構図を狙い撮った作品、偶然の産物、現地の人たちとの関わり、写真を通した人との縁などについて話をした。短く分かりやすい言葉を選びながら話し、彼が通訳した。

日本からネガシートに入ったネガ、コンタクトシートとRCプリント数枚そしてバライタプリント20枚、その内10枚をパネルに貼り付け残りは手にとって観て貰えるようにPP袋にいれたまま置いた。

話し終わった後、カメラ5台をZaw Min氏に手渡した。そして校長先生に額装したプリント1点と写真集を寄贈した。

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そして私は生徒の1人がこの日のために描いた額装した鉛筆画を貰った。さらに
私の講演中に書いてくれた私の似顔絵を貰った。

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予定していたイベントが終わりジュースとパンで懇親会が始まった。私が撮影に使用しているRolleiflexは珍しいようで代わる代わる手に取りファインダーを覗いていた。構造上左右逆に見えるファインダーは新鮮なようでカメラを横に振りながら楽しそうにしていた。また、露出計も初めて観たらしく、入射式とスポットメーターを切り替えながら様々な方向に向けて測光していた。

今回の講演イベントはここで絵画を専攻している高校生と先生、ヤンゴン郊外にある芸術大学の学生、先生そして興味をもってくれたフォトグラファーの方々も来ていた。

20161227-008【高校の先生たちと】

20161227-007【ミャンマーのフォトグラファーたちと】

ある年齢以上のフォトグラファーは昔、当たり前のように銀塩モノクロプリントをやっていたのだろう、忘れてしまった何かを思い出しているように見えた。若いフォトグラファーのある人から今回の私の話を聞いていろいろ考えされられることがある。とても良い刺激が貰えたと嬉しい感想を話してくれた。

私はミャンマーで撮影し作品作りをを通してミャンマーから多くのことを学び、得ていることに対して、数年前からミャンマーで活動しているNPO法人、ミャンマーファミリークリニックと菜園の会(MFCG)をサポートをしている。理事として活動したり写真集や作品の売り上げの一部を団体に寄付している。

これは医療や教育の届かない農村に人たちの自立支援という意義の深い重要な活動だ。

ライフライン皆無で病院や学校も無い農村の支援と高校の写真部の支援、落差の現実を考えると正直複雑な思いもある。しかし、写真を通してミャンマーと関わりを持った私には写真活動を通して貢献できることは素直に嬉しいしやりがいもある。今回ミャンマーへはこのために来たと言って過言では無い。

今後もミャンマーの人たちが写真を身近に楽しめるよう活動していきたい。

20161227-009【高校の先生と生徒達と記念の1枚】

2014年6月に日本写真協会が東京写真月間、アジアの写真家でミャンマーを選びZaw Minさんと知り合えたことから始まっている。彼の細やかで丁寧な段取りでスムーズに全てが運んだ。前もって会場セッティングを確認し、停電に備えバッテリー駆動のプロジェクターも用意していた。私がヤンゴンの着いた講演前日にホテルまで来てくれ移動で疲れてる私に気を使い打合せしやすい静かなホテル内のレストランを選んでくれたことも有り難がった。