
ギャラリーの壁に掛けられた作品に幾つか赤いピンが付いている。これは私の作品に価値を感じ購入して頂いた証しである。展示期間が終わったら出来るだけ早く購入して頂いた方々に届けないとならない。そして次に発表する作品は期待を裏切らないことが求められる。私も気に入った作品や作家を応援したいなど動機があれば作品を購入している経験から購入する側の気持ちもある程度理解できる。一番悲しいのは作家が納得できる理由も無く活動をやめてしまうことだと思っている。
ギャラリー冬青は約1ヶ月の展示期間がある。自分の作品とこれだけ向かい合える機会は貴重だ。展示に向けて最善の選択をしてプリントを仕上げているのだが気付くことは幾つか出てくる。これは作家にとって大きな財産になる。観てくれた人からの感想や意見、質問も参考になるが自分で気付けることは大きい。否定的なことを言われる場合もあるが自分の作品に対し責任を自覚していれば受け止めて咀嚼することはできる。できない場合は甘さが残っていると認めざる得ないだろう。
床に並べたプリントを見てもパソコンの画面を何時間見ても気付けない。仲間とのグループ展を何十回やっても分からないことだと思う。
そしてギャラリーに足を運んでくれた人たちの反応、作品を購入して頂いたコレクターの方々によってギャラリーに認められると次回の展示の話がもらえる。それが作品作りの大きな動機付けになるのは言うまでも無い。
以前にメーカー系ギャラリーやレンタルギャラリーなどで展示は経験していたがコマーシャルギャラリーの展示はそれらとは大きく違うと感じた。
(2013年7月の展示でDMに使用した写真)
2013年の展示は写真集がベースになっているが写真集に無い作品も数点入っていた。展示は25〜30点、写真集は70点以上でその中でセレクトすることも考えたが、壁に並べて観ることとページをめくりながら観ることの違いなど考えて展示は再構成した。それともう一つの理由があった。写真集の原稿として渡したプリントも全て展示に耐えうるプリントに仕上げていたのでそのまま展示するつもりでいた。(後々、写真集の原稿用と展示用では作品にもよるがトーンを変えた方が良いことを知った)
しかし、印刷立ち会いで刷り上がったクオリティの高さを見て、展示用のプリントはもう一度プリントし直したい、しなくてはならないと思い展示に間に合わせるべく全て仕上げ直した。もしやっていなかったら後悔したはずだ。その時出来ることは全て最善を尽くしてやっておくことが重要だ。(展示作品の1部はこちら)
2015年の展示は写真集出版は無く、展示に集中した。2013年の展示はそれまで2005年から撮り貯めた中から写真集を作り展示したが今回は時間的な積み重ねは少なく、自分と被写体であるミャンマーの人たちやその周囲との関係を掘り下げて構成しようと考えた。ミャンマーの季節は日本のような四季では無い。大きく雨季と乾季に分かれるが乾季から雨季になる3月〜5月くらいまでが1年で一番暑い暑季を加えた3つの季節になる。2014年は雨季の8月に撮影予定があり雨季について考え「雨安居」と呼ばれる仏教徒のいとなみに焦点をあてた。何度か訪れていると季節によって人々の様子や暮らしぶりに違いが見られることに気付き、彼らの宗教観に基づく人間性などに興味を持ち始めていた。展示期間中、在廊出来ない時に聞かれるだろうことを想定して簡単なコメントをあらかじめ用意しておいたが、これが予想以上に反響が良かった。(展示作品の1部はこちら)
(2015年12月の展示でDMに使用した写真)
今年2017年12月の展示は今まで得たことを元に作品作りを進めている。またこの2年で被写体との自分との関わりや距離感は大きく異なっている。ミャンマーの無医村で自立支援をしているNPOの活動に参加した点も影響している。
ギャラリー冬青は月毎の展示で所属している作家で展示枠の殆どが埋まっている。写真集を出版できれば展示が約束されるわけでも無く、誰かが入れば誰かが外れることになる。なのでそこに入るにはいつくかのハードルがあると思っていた。そんな中、冬青で展示するきっかけは2013年7月枠を新人に向けてポートフォリオレビュー形式で募集していたのに応募し、私を選んでくれたことにだった。(その時の高橋社長のブログ)
そして、元々2013年12月に出版予定で進めていた写真集を展示に合わせて繰り上げることも決まった。
ギャラリー冬青はコマーシャルギャラリー、展示はコレクターの方々に作品を届けることが前提となる。そもそも応募の条件に「作品を10点以上売る」があったことで理解できる。私の作品は30,000円(税別)で販売するだろうと考えると10点で30万円、売り上げは作家とギャラリーで折半なので、極端に考えれば10点自分で買い取っても実質15万円で1ヶ月展示が出来る計算になる。レンタルギャラリーと比較すれば、会場代やフレームやブックマット、DMそして広報もギャラリー側がやってくれるからそれだけでも展示できればラッキーではないかと考えもしたが今振り返ると思慮の足りなさを感じる。
メーカー系ギャラリーの様に一般に知名度が高いわけでも無く、ギャラリー巡りのついでて行くには便利とは言えないギャラリー冬青との出会いは2005年に確か、誰かのネットの書き込みで知った北井一夫さんの展示を観に行った時と記憶している。中野駅から向かったか分かりにくく、今のようにスマートフォンのナビも無かった時代で迷いながら、最後はギャラリーに電話をかけてたどり着いた。一見普通の民家のようにも見え、不思議な雰囲気の建物が印象的だった。靴を脱いで入るのも珍しく、入ると受付の方がお茶を出してくれて作品について説明をしてくれたと思う。高橋社長と初めて会ったのはハッキリ記憶してないが恐らく渡部さとる氏の展示の時だったのだろう。
銀塩モノクロプリントで作品を作っていた私には静かで見ごたえのある展示、そして気に入れば安心して購入できる冬青ギャラリーは毎月とは行かないが気になる展示には足を運ぶギャラリーとなった。出版社でもあるのでクオリティの高い写真集を毎年数冊のペースで出版しており写真集の棚を見ているだけでも時間を忘れることができた。
そして、いつか自分の写真集がここに並ぶことを考える様になって行った。
写真集については次に書き起こそうと思う。
2017年12月にギャラリー冬青ではおそらく最後になるだろうの写真展がある(ギャラリー冬青は2018年末でクローズになる予定と言われているため)。
2013年7月に写真集「Thanaka」の出版と合わせてギャラリー冬青で初めての写真展を開催した。
その時の展示がギャラリーに認められて、2015年12月に2度目の写真展を開催し、そして今年の展示につながっている。
これから時々、写真展に向けての道のりをここに記していこうと決めた。
数年後、自分自身で振り返った時にこの時期何を考えて、何をしていたか記憶をつなぎ再生出来るように残しておきたい。また、ここを目にした人に何か感じてもらえれば幸いだと思っている。
2013年の展示は写真集「Thanaka」を中心にした展示だった。写真集「Thanaka」は私がミャンマーを初めての訪れた2005年にから2012年に撮影した作品で構成した。撮影はミャンマーのシャン州にあるインレー湖とその周辺。そんな中、2011年にミャンマーの大統領に就任したテインセイン大統領が打ち出した経済開放政策で国が大きく動き出す時期になり、写真集はこれからミャンマーが変わり始める直前をまとめることになった。
2012年以降、都市部ヤンゴンを筆頭に街の様子や人々の暮らしが大きく変わり始めている。12月の展示に向けて変わりゆくミャンマーと変わらないだろうミャンマーを視点に2冊目の写真集にまとめて行きたいと考えている。
昨年末にそれを踏まえ冬青社の高橋社長と第一回目の編集会議に臨んだ。
その時に候補にセレクトしたワークプリントを作成してきた。それもあと1日か2日暗室に籠もれば完了できる目処が立ってきた。
写真はそのワークプリントの一部と、コンタクトシート。
次からは、展示で得たこと、写真集で得たことなどについて書き起こそうと思う。振り返ることで次に繋げるヒントになるだろうし、頭で分かっているつもりでも文字に書くと曖昧な部分がハッキリしてくる。

二月の終わりに鹿児島へ行ってきた。
寒い関東を離れ暖かい南国を目指したのだが、意外と寒く体感は地元とあまり変わらない感じだった。それでも食べ物は美味しくのんびり楽しい3日間を過ごすことが出来た。
鹿児島と言えば桜島、鹿児島市内の城山公園展望台からの景色。今回は噴煙など全く見えず静かな桜島だったが山頂付近の形から幾度となく噴火を繰り返し続けている様子は想像できる。もう一つの鹿児島の顔ともいえる西郷隆盛が西南戦争で追い込まれ最後を過ごしたのがこの地だったそうだ。自らの死を覚悟した西郷隆盛もここから鹿児島の町と桜島を見たのかと思うと感慨深い。

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして登録された集成館と名勝仙巌園、ここも鹿児島で訪れたい場所だった。明治政府を作り日本の近代化の大きく貢献した薩摩と長州、特に薩摩は薩英戦争の後、「敵に学べ」の精神で多くの留学生をイギリスへ送り込み軍事にとどまらず民需や社会インフラに至まで多岐にわたり整備を進めたことは薩摩藩主島津家の先見の明があったのだろうと、ここでは感じることが出来た。

写真はその御殿で抹茶と和菓子がでるガイドツアーに参加したときの一室。立派なお屋敷の居間から寝室、風呂、手洗いそして外国の要人と会うためのダイニングテーブルセットのある部屋まで解説付きで巡ることができた。入場料を払い見るだけとは違い+600円で説明を抹茶と和菓子までつくのは絶対にお得。ただ残念なのはいずれも撮影は禁止な点だ。
3日目、最後に立ち寄ったのが霧島神宮。空港から近くレンタカーを返すのも都合が良いので最終日の予定に入れていた。
市街地から少し奥に入った場所にあり、鳥居の前に立つと身が引き締まる思いがする。お寺では無く神様の祭られている特別な空間への入り口で何度か感じる感覚だ。鳥居の脇には日本の国歌「君が代」の歌詞にでてくる”さざれ石”があり、ここで流れてきた時間と人々の信仰が伝わってくる。本殿でお参りを済ませ、お神籤を引くと小吉、可も無く不可も無くな結果だが何事も普通が一番。御神木の手前から脇に入ると旧参道「亀石坂」がある。背の高い杉の森を見上げると車で途中まで来られる現在の参道よりこちらを麓から登ってきた方が御利益がありそうな気がした。

市内から霧島に来る前、知人が教えてくれたビルマ様式のパゴダのある寺を教えて貰ったので寄ってきた。その様子は私がボランティアとして参加しているNPO法人のブログに書いた。
鹿児島は美味しい食べ物も豊富で、薩摩の黒豚、天然鰻、さつま揚げ、地鶏そして桜島の柑橘類・・桜島の道の駅では種類、量ともに豊富な柑橘類があり、店先で選んでいたとき地元の人らしき男性がどこどこの何々さんのきよみオレンジが美味しく、私はいつも買っていると教えてくれた。選択肢の多さで決め手に欠いて居たので即決し「生産者藤崎さんのはるみみかん」を買った。ホテルにもどりさっそく食べると普段地元のスーパーで買っていたものとは別次元の豊かで甘い味におどろいた。
旅先で印象深く残るのはこのような人の言葉だったり、食事に入った店の店員さんが発した些細な情報だったり、2泊しかしていないホテルのフロントの女性が私の名前を覚えて声をかけてくれたりだとか、ガイドブックや旅番組、ネット検索で出てこないところなのだろうと改めて感じた鹿児島旅行だった。
先日、私が理事として活動しているNPO法人、ミャンマーファミリー・クリニックと菜園(MFCG)のイベントで映画上映会を開催した。
上映した映画は「Poverty Inc. 」日本語にすると「貧困組織」「貧困ビジネス」などになるのかもしれない。副題で「あなたの寄付の不都合な真実」とある。
この映画を知ったのは昨年秋、MFCGの代表、Dr.名知が渋谷の映画館で上映されたときにゲストスピーカーとして呼ばれ参加したときだった。その時の様子はこちらMFCGのブログに書かれている。
映画についてはサイトにレビュー含めて詳しく書かれているが、寄付をする人たちからみれば良かれと思ってしている寄付が現地の人たちを苦しめている不都合な真実がいくつかの実際の現場やそこに関わる人たちのストーリーで構成される約90分のドキュメンタリー映画だ。
映画の中で出てくる話で思い出したのが、自分が学生の頃、丁度198o年代、飢餓に苦しむアフリカの子供達を救おうを旗印に欧米の歌手が集まり曲を作り世界中に配信していた。私はそれを見たときに「貧しい不毛の大地アフリカ」が頭の中に刷り込まれたように思える。
最近日本では、街頭や雑誌、TVCMでアフリカのやせ細った子供を使い寄付を呼びかけているのを目にする。「1日コーヒー一杯、あなたの支援が子供達を救います」
一方、ネットなどで検索すると巨大なNGO組織が多額の資金を政府や国際機関の援助金や寄付などで集めその使い方が叩かれたりしているのも見かける。
政治情勢、異常気象、天災などによる貧困に対して支援が必要なのは誰でも分かることだが、この映画で出てくるハイチでは大地震から数年経っても大量の支援米が送られ続ける実態などをみると考えさせられ「支援を一生受け続けたい人など居ない」のセリフが頭に残る。
私が12年前から撮影に訪れているミャンマーでMFCGは現地の人たちの自立を目指して活動している。これは映画でも出てくる「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」現地目線に立つ支援だと信じている。
昨年、MFCGを支援してくれている人たちにインタビューする機会があり、MFCGを支援先に選んだ理由を聞いたとき多くのひとから「私が支援しているお金が現地でどのように使われ、役にたっているのかが見える」と答えてくれた。
私は今回のイベントの最後の挨拶で「寄付の使われ方を考えたとき、MFCGを有力な候補として是非考えて欲しい」と話をした。映画の示す「不都合な真実」に対する答えのひとつにはなっているはずだ。
ただ、元々日本人は寄付やボランティアに対する意識が極めて低いと言われている。私自身も振り返ればMFCGに参加する前は震災などおこれば単発寄付をする程度で継続支援や自分の時間を使って支援とは無縁だった。
キリスト教などは施しの精神があると聞くし、欧米で事業などで成功すると社会貢献活動をする有名人の話も良く聞くが日本では希だ。
MFCGが活動しているミャンマーは寄付指数が3年連続世界1位となっている。英国のチャリティー団体「Charities Aids Foundation」が全世界140カ国で寄付行為やボランティア活動についての調査を行った結果だそうだが、日本は114位。
この映画を見ると「寄付をしない理由」になってしまう可能性もあり、見方によっては日本という国はこの映画が意図することに対する議論の土俵にまだ登ることすら出来ないのかもしれない。
写真は日本の支援で出来たヤンゴンの路面電車跡、開業わずか半年で休止してしまった。理由は利用者が少なく採算が取れないとのこと。このような場所ではそうなるのは多くの人が分かっていたと思うのだが。。

使用頻度の少ないレンズやカメラバックなどを売却し軽い三脚を購入した。

作品制作を考えたとき、何にお金をかけるのが一番正しいかの答えだ。何となく興味だけでカメラやレンズが増えても結局何も生まないことは数年前に自分なりに理解した。
国内で車や電車で移動するイベントなどで撮影するときは大きくて重い三脚で構わないが海外に持って行くときはずっとGitzoの1型4段を使っていたがそれなりの重さがあり、どうしてもホテルに置いて行きがちになり、いざというときに手元に無い状態は何度となくあった。
機材(荷物)が軽くなればそれだけで足も軽くなり撮影範囲が広がり、失敗も減る。そのことは年々高騰する銀塩感材の節約にも繋がる。などなど、もっともらしい理由をつけてみたが、結局年齢と共に重いが億劫に感じているだけなのかもしれない。
三脚を新品で買うのは10数年ぶり、三脚にも取説があるのを思い出したし、使っていると必ず緩むネジをしめるレンチも安っぽく無いモノが付属している。
今回雲台は今までのをそのまま使うことにしたのだが、今時の雲台はクイックシューが当たり前なのか。。。私が主に使用しているRolleiflexには専用のクイックシューのようなアクセサリがあるため雲台はシンプルだ台だけのほうかありがたい。しかし軽いのは助かる。
