明日は朝便でヤンゴンに戻るのでインレー湖は今日が最終日のようなものだ。4年くらい前にインレー湖岸、温泉のあるカウンダイ村で知り会った女性、写真集に載せたポートレートを撮影した当時85歳、2年前に訪れた時も元気そうだったが、昨年は荒天や撮影の都合で寄れなかった。今年は88歳になるのでもしかしての予感を抱えながら朝の9時、ホテルからカウンダイ村へ向かった。もしもの予感が当たるのを避けるようになんとなく最終日にしてしまった訪問。雨季で分かりにくくなっている水路をボートがかき分けながら進む。見覚えのある僧院の船着き場が見えてきた。ボートを降りると彼女の家はすぐそこだ。道を歩き始めると家並みの様子が違う。コンクリートブロック作りの壁の家が増えている。記憶している家の前で中で作業していた青年に写真集のページを見せると私の祖母で、となりで元気に暮らしてますと。
この一言で気が楽になり焦るように隣へ。娘さんと孫とひ孫が居て隣に向かって大きな声で呼ぶと彼女が出てきた。気持ち小柄になったように思えたが足取りも話し声もしっかりしている。私のことがすぐ分かったようで私の手を取り嬉しそうに何か話していた。
椅子に並んで座ってもずっと話している。ガイドさんに逐次訳してもらいながらの会話、私のビルマ語ではまだまだ通訳が必要なのがもどかしい。
落ち着いたところで写真集の写真を見せると更に嬉しそうに、これを大きくしてこの壁に飾ると話していた。こんなに喜んでくれるのだったら大きなプリントも持ってくれば良かった。
50近い息子が病気で隣で寝た切りに近い状態らしく息子の世話をしながら早朝は食べ物を作り村を歩いて売って生計を立てているそうだ。子供たちはもう仕事はしないで良いと何度も話をしているが仕事が好きだからやめないとのこと。
太平洋戦争中、この辺りに駐留し温泉まで道路を作っていた日本兵がお菓子や当時貴重だった塩をくれたと話していたが、日本人の私には話さないが嫌なことも沢山あったのだろう。
彼女の子供は6人、娘が4人、息子が2人だが1人はだいぶ前に病死したそうだ。娘2人一家とここの敷地内で暮らしている。孫の人数は正確な数が分からないが20人以上、ひ孫だけでも10人以上居るようだ。
そのうちの1人の娘さんの家に寄った。歩いて5分くらいの所に住む。20歳の娘と15歳の娘は男の子の服装をしていた。他の姉妹たちと違いよく喋る。さっきの寝た切りの兄の話を沢山していた。このあたりからもお婆ちゃんの苦労がうかがい知れる。
ニャウンシュエへ行く途中、納豆作って居る村に寄った。大量に豆を茹でたり発酵させたりしててあの香ばしい納豆の香りだった。
ボートで20分、インレー湖の玄関口、ニャウンシュエへ。
ガイドさん馴染みのシャン料理屋で昼食、カウスエジョーが有名がお店ということでそれを頼むと確かに美味しかった。
市場(ここは陸の町なので常設市場がある)近くのお店でシャンバックとパオ族のバック2色を買った。手持ちのパオ族の衣装に合わせてイベントの時などで有った方がいい便利と購入した。ガイドさんに相談したらここがローカルの人たちも買いに来るお店らしく値段も手頃だ。
写真集にも載せているパラウン族の尼僧院へ。ここ数年立ち寄るところの一つだ。
着くといつもと様子が異なり、何かの準備をしているようだった。聞くと、ここで一番偉かった尼僧が無くなって1年経った供養のためパラウン族の言葉でお経を上げるため僧侶を呼び明日実施されるとのこと。今日はそのときに振る舞う料理の下準備で近所の人たちも集まり下ごしらえをしていた。
パラウン族の子供達は自習時間のようでビルマ語の勉強をしていた。テキストを見せてもらい私も読もうとするとわからない文字がそれなりに出てくる。それでも私が読むのがおかしいらしく、笑いながら一緒に読み上げてくれた。彼女たちの方が当然滑らかに読むのは仕方無いか。。
最後にニャウンシュエに住み旅行会社を立ち上げた鈴木さんのオフィスを訪れた。鈴木さんとガイドさんはすでに知り合いだった.。ヤンゴン以外で暮らす日本人に会うのは初めてだが、会社を初めて苦労も多いだろうが是非頑張って欲しい。私もまたくるときは立ち寄りたい。
夕方、ボート乗り場でガイドさんと別れ私はホテルに戻った。今日は夕方になっても天気が良い。青空の中ボートでインレー湖を進むと水面がキラキラと眩しい。
せっかくの陽射しなのでミニンゴン村を少し散歩した。僧院の前の広場でサッカーをする子供達。向かいの学校のグランドにあるバレーコートでバレーをする高校生かもう少し大きい男のたちがいた。ミャンマーでサッカー人気が高いと聞く、あと見かけるのがチンロンくらいなのでバレーボールはここでしか見たことがない、ジャンプサーブにアタックとブロック、日本の高校の部活並みに本格的だった。
明日はヤンゴンに戻る、ヤンゴンはこっちにくらべ雨が多いだろう。