私の写真、カメラとのかかわりについて

気合い入れて写真を撮り始めて約1年半になるが、それ以前の写真歴について

思い起こしてみると、最初に手にしたカメラは小学4年生の頃、家にあったオリンパスペンEE(だったと思う)だった。

私の両親が昭和40年頃買ったハーフサイズカメラで、当時は普通のカメラの倍写真が撮れると画期的だったようだが、36枚撮りなんぞ入れたら72枚も撮れる、と言うより撮らなくてはならないシロモノた。確か私が初めてカメラを借りた時も撮りかけのフィルムが入っていて、私が使い切ってDPEに出したら、1枚目は2年前の海水浴の写真で、その後の我が家の歴史2年間分が詰まっていた。

少々話しがそれてしまったが、当時鉄道少年全盛期の私が最初に撮ったのは【鉄道写真】だった。と、言っても所詮小学4年生の行動範囲では駅のホームに停車している列車を撮る程度だった。最初は横浜駅に上りブルートレイン瀬戸、出雲、あさかぜ、さくら、はやぶさ、富士、銀河等だ。次は新幹線開通前の『北の玄関』上野に進出。当時、普通列車より特急・急行の発着が多い上野は我ら鉄道少年のパラダイスだった。

しかし、当時は空前の鉄道ブームで特に寝台特急の人気は絶対で、中でも深夜に上野を立ち早朝に着く『北星』『北陸』は貴重な存在だった。始発電車に乗り横浜駅で猛ダッシュし東海道線に駆け込み、更に東京駅でもダッシュして山手線に乗り換えて上野に着く、これが当時小学生だった私の限界だった。これでも『北星』がギリギリ23分で『北陸』は丁度回送されてしまい遠ざかる後ろ姿しか見つけられなかった。まあこんな感じで小学生の時は鉄道写真を友達に誘われたら一緒に早起きしたくらいで、一人で撮影に行くほどではなかった。それにカメラの使い方もいい加減で本当にシャッターを押すだけで、絞りやシャッタースピード、ISO感度(当時は ASAだった)もいじった記憶も無い、正確にはそういう設定があったかも定かでない。

中学生になるとほとんどカメラを使わなくなっていたが修学旅行の時は持って行った。このときはオリンパスペンEEからオリンパスTripというストロボ内蔵のコンパクトカメラだったが、雨が多くあまり撮った記憶も無い。その後中学を卒業し高校に入学する前の春休みに友達5人で北海道旅行に行った。(この中に我HP生活の先輩'しけた'さんもいた)この時しけたさん始め何人かが一眼レフカメラを持って来ていて、函館の夜景や丹頂鶴等いろいろ撮影していた。私もコンパクトカメラで撮っていたが夜景は真っ暗闇だし、丹頂鶴は豆粒にしか撮れていなかった。今思えばバルブ機能はないしレンズも35mmの広角短焦点だったので当然の結果だった。それに対しバルブで撮った夜景は絵葉書のように綺麗だし、望遠レンズで撮った鶴も飛び立つ姿がはっきりと写っていた。

このとき始めて一眼レフカメラの世界を垣間見たのかもしれない。

そのあと高校に行き始めたが、部活でアルバイトも出きない高校生が簡単に買えるシロモノじゃなく半分諦めていたが高校2年の修学旅行前、親に一眼レフカメラの長所を並べ説得した。そして、ある予算内で買うことになり、私は雑誌の広告を見て、量販店を回り歩いた。当時、候補に挙がったのはCanonAE-1PPENTAX MEsuperOLYMPOS OM-1だった。AE-1Pは何人も持っていたりとか迷ったが、あるとき横浜の某量販店でOLYMPOS OM-2Nのシルバーモデルがほぼ予算に近い限定特価で売られているのを発見してしまった。OM-2Nと言えばOLYMPOSのフラッグシップモデルで雲の上の世界のものと思っていたのが、突然私の目の前に舞降りて来たような瞬間だった。限定品と書いてあったので店員さんに在庫を確認して急いで家に帰った。そしてその夜、私の知っている限りのカメラ知識を駆使し、これを買うのが、いかに得かを力説した。熱意が通じたのか、呆れたのかは定かではないが予算を1万円近くオーバーでも買えることになった。早速、次の日の学校帰りに部活を休み店に向かった。何度か通っているうちに一人の店員さんと仲良くなっていたのでOM2に対する思い入れや親に買うための説得したこと等話したらとても喜んでくれて、Sunpakの中古ストロボやフィルムをおまけしてくれた。買ったあと嬉しくて夕暮の上野駅や根府川鉄橋などに撮りに行った。ただ50mmF1.7しか持ってなかったのでイメージ通り(鉄道雑誌に載っているような写真)に撮れなかったが、それでも十分楽しかった。ただコンスタントに撮れるほど財力も根性も無いし、交換レンズなんて夢のまた夢で、結局文化祭や遠足、修学旅行の時くらいしか出番がなくなっていった。それでも学校のイベントに持って行くといろいろ活躍してくれた。クラスメイトや部活の先輩後輩達のスナップが多かったが、以外に頼まれたのが『友達に頼まれたんだけど◯×△の写真撮ってくれ』との依頼だ。頼まれた時'えっ、何で、友達って誰?'なんて興味は当然湧くわけだが、ここで詮索すると引いてしまうので『わかった、チャレンジはしてみるケド断わられるかもしれないよ』と言う程度に答えておく。一応それなりに撮れて依頼主に渡すとき相手の表情を見ていると大体背景が読める。友達から頼まれただけでそんなに喜ぶはずも無く単純に本人の依頼なだけだ。まあこんなことが度々あったってことは写真のできが良かったのだと今でも勝手に思っている。

ただ、この頃ピンぼけを連発するようになってしまった。しばらく原因は分からず、なんとなく撮らなくなってしまった。あと丁度、受験勉強の時期にもなりすっかりカメラから疎遠になっていった。

そして大学に入ってから健康診断で視力が落ち、さらに乱視がひどくなっていたことが判り、今考えるとこれがピンぼけの原因だったのかもしれない。どうもスプリットで合わせたのとマット面で合わせた感じに違和感があった。大学時代もイベントに時くらい年に数回しかカメラは出動しなかった。大学4年の研究室の教授はどこだか忘れてしまったが元々カメラメーカに勤めていたらしく、良くカメラの開発について話をしていた記憶があるが、あまり真剣に聞いて言い無かったので内容は殆ど覚えていない。それどころか教授に借りた、当時画期的新製品だった「ミノルタα7000」を三脚ごと倒して壊してしまい謝りに行った不届き者だった。そして社会人になってもカメラ熱は冷めたまま時が流れていった。あとこの頃に弟が写真をとるようになって使っていたのかもしれないがOM-2を見かけなくなっていた。

そして結婚して今の地「相模原」に落着いてから1年ふが経ち、なんとなく写真を撮ってみたくなってきた。私は凝りだすと一気に加速する性質なので、そこからは速かった。まずはカメラ選び、そして雑誌や本の購入。しかし雑誌等に掲載されている入選作やプロの作品を見ても善し悪しがよくわからないものも多く、結局一通り基礎を学ぶべくカルチャーセンターに通い始めた。通い始めて一年が過ぎたが最近になって少し自分でも進歩が確認できるようになった。スポーツ等もそうだが趣味として楽しむ場合でも、ある程度基礎が身に付かないとやっていて楽しく無く、続かなくなってしまうと思う。しかしそれと同時に奥の深さ、難しさを感じ始めている。

写真を撮るようになると旅行先選びも半分、いやほとんど被写体選びに近くなってくる。江ノ島とは違う綺麗なビーチ、青空、京都嵐山の美しい紅葉などなど。ただ、今になって非常に後悔しているのが新婚旅行でオーストラリアに行ったとき、せめてOM-2でも持って行き綺麗な海や夕日、大自然を撮っておきたかったことだ。

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このページは、kameyamaが2001年7月30日 22:12に書いたブログ記事です。

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