「これで僕の"戦後"はようやく終わったよ・・・」O氏が大法要前夜祭後に部屋でもらしたひと言、とても重く響いた。
O氏はバンコク在住のDr.T氏の学生時代からの友人で、私が最初にミャンマーを訪れたツアーで一緒だった。O氏の話では彼の叔父は第二次世界大戦中マンダレー付近で戦死されたとのこと。そして彼が昨年マンダレーを訪れた際、ある僧院で旧日本兵の遺留品があるから返還したいと申し出が あった。遺留品はビルマ戦線で戦死した旧日本兵のもの。
出征時にもらった日章旗の寄せ書き、別の戦地(モンゴル)からビルマへ送った絵はがき(1枚目写真)、当時の女優と思われるブロマイド、馬に乗った戦友の写真、そして疑似機関銃だった(2枚目写真)。疑似機関銃とは、インパール作戦に破れ敗走する日本軍は補給路を断たれ、食べるものも戦う武器すらない状況でも敵と戦うために機銃掃射音に似せたものを使っていたそうだ。
これらの遺留品を日本に持ち帰り、戦没者が眠る靖国神社に納めようと持っていったら受け付けて貰えず、厚生労働省に日章旗や手紙にあった名前を調べてに行っても手がかり無しで困っていたところ、ここ高野山の成福院では毎年、ビルマ戦線戦没者慰霊法要があり、このような遺留品も納めてくれることがわかり、今回の参加となった。
私もここ数年ミャンマー(ビルマ)との少なからず係わりがあり、同行させてもらい参列したのが今回、高野山に来た経緯だった。
O氏は前夜祭の席でこれまでのことを参列者に説明し、その中で「この遺留品を60年以上も大切に保管してくれていたビルマの人たちに我々は感謝の気持ちを強く持たなければならない」と訴えていた。
自分の両親も終戦のころはまだ子供で戦後の大変な時代を生きてきた話は聞いていたが、戦地の話はドラマや映画、本で知っている限りだった。しかし、今回、直接戦地で戦い、多くの戦友を失ってきた人たちの話は言葉にすることすら出来ないと感じた。
3枚目の写真は大広間の夕食。100人分の精進料理を手際よく給仕していた。