Tedim Road
Photo Exhibition / 写真展
Location / 会場 Gallery Tosei / ギャラリー冬青
Period / 会期 4 August to 29 August, 2020 (Sunday, Monday and 13-17,August Closed) 11:00-19:0
東京新聞WEB YouTube 2B channel IMA ONLINE
As I met various people through Myanmar, I became aware of the “connection between Japan and Myanmar”. The World War II was an unfortunate event, but it was the beginning of the relationship between the two countries, and I wanted to touch the stories of its predecessors, so I visited "Tedim Road", which was once called “Hakkotsu Kaido".
The Tedim Road is leading from Kale-myo, Sagaing Region in central Myanmar, through Chin State to Imphal, India. The mountains of the Arakan Mountains, which have an altitude of 1000 m to over 2000 m, pass through a series of difficult points. I heard that there are many Christians in Chin State. When I overlooked the town of Tedim from the roof of the guest house, there were several churches and listened a hymn in the evening. I felt that it is a diverse country that is very different from the one I have seen so far (Yangon, Inlay Lake, Meiktila).
In March 1944, the “Imperial Operation” was launched, ignoring hostility and supply, but the British and American coalition forces were defeated, and the rally began in July during the rainy season. One of the withdrawal routes was the Tedim Road. It was a strategy called the worst in history, with many deaths and starvation rather than death due to repeated rout without weapons and food.
In April 2019, a person who returned from Operation Imphal said, ''The locals hid me from the British Army.They nursed me and gave me a meal. If they weren't there, I couldn't live and return. Myanmar(Burma) is my hometown'' Hearing I decided to visit during the rainy season when he was forced to withdraw.
In August 2019, heavy rain continued on the Tedim Road every day, the temperature was low, and there were countless landslides and rockfalls. I used to move a 4WD vehicle, but at that time Japanese soldiers were lurking in private moats in the daytime so they would not be discovered by the enemy. It was beyond my imagination that they walked through steep roads in the mountains at sunset.
Villages scattered along the road spread from the hill to the slope. The fierce battle over this hill may have been repeated. Remains are still found in the soil washed away by heavy rain.I heard that in the village where the Japanese army was stationed, there were many villagers who were victimized by the Allied air raid. Despite the situation, it was a valuable experience to be able to listen directly to the people of the village who helped the Japanese soldiers who are running out with their own ears.
In 2020, 75 years after the WWII, there are few people who can directly talk about the time. The relationship between Japan and Myanmar will continue to develop in various fields in the future, but it must be remembered that many of the predecessors suffered and the local people were sacrificed.
ミャンマーを通して様々な人たちと出会うなかで「日本とミャンマーのつながり」を意識するようになった。戦争は不幸な出来事だったが両国の関係の始まりであり、その先人たちのストーリーに触れてみたいと思い私はかつて「白骨街道」と呼ばれた「Tedim Road/ティディム街道」を訪れた。
ティディム街道はミャンマー中央部のザガイン管区カレーミョウからチン州を抜けてインドのインパールへ続く幹線道路。標高1000mから2000mを超えるアラカン山系の山々が幾重にも連なる難所を抜けて行く。チン州ははキリスト教徒が多いと聞いていたが、ゲストハウスの屋上からティディムの町を見渡すと教会がいくつもあり夕方になると賛美歌が聞こえてきた。私が今まで見てきたミャンマーと大きく異なる世界に改めて多様な国家であることを感じた。
1944年3月、敵情と補給を無視した「インパール作戦」が発動されたが英米印連合軍に大敗し雨季真っ只中の7月から敗走が始まりその撤退路の一つがテディム街道だった。武器や食べ物も無く敗走を重ね戦死より病死や餓死の方が多い史上最悪と呼ばれる作戦となった。
2019年4月、インパール作戦を生き帰国された方から「現地の人がイギリス軍から匿い看病し食事の世話をしてくれなければとても生きて帰れなかった、ビルマは私の故郷だ」と聞き私は撤退を強いられた雨季に訪れようと考えた。
2019年8月、ティディム街道は連日豪雨が降り続き気温も低く崖崩れや落石も数えきれなほどあった。私は4WD車の移動だったが、当時日本兵は敵に見つからないように昼は水浸しの個人壕に潜み、夜になると道なき山中を歩いて逃げたことは想像を絶していた。街道沿いに点在する村々は高台から斜面に向かって広がっている。この高台をめぐり激しい戦闘が繰り返されたのだろう。豪雨で流される土壌から今でも遺留品、遺骨が発見されている。日本軍が駐留していた村で、連合軍の空襲に巻き込まれ犠牲になった村人が多く居た話を聞いた。そのような状況にも関わらず敗走する日本兵を助けた村の人から自分の耳で直接話を聞けたことは貴重な経験となった。
戦後75年を迎えた2020年、当時を直接語れる人はもう僅かだ。日本とミャンマーの関係はこの先も様々な分野で続き発展して行くことだろうが、先人たちの多くの犠牲があったこと、現地の人たちに犠牲を強いたことを忘れてはならない。
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- Tedim Road沿いにあるKan San Zang 村で出会った少年。 彼が頭に載せているのは日本兵がかぶっていたヘルメットだ。全体が赤黒く錆びて いるが形は保っている。彼が近所の山で拾ったそうで今は子供の遊び道具になって いる。 戦争中、日本軍が駐留していた間、毎日朝晩イギリス軍の飛行機が爆弾を落とし、 毎晩日本軍と村人で道路など壊れたところを治す日々だったそうだ。当時村には 300~400人暮らしていたが何人くらいが犠牲になったかは分からない。そのような 状況だったので戦後間も無い頃はヘルメットで遊ぶようなことはなかったと思うが 月日が経つ中で子供が遊び道具にしても違和感が無くなったのだろう。Tedim Road 沿いの村々では今でも遺留品や御遺骨が出てくることがあり、どこかの家で保管さ れている。
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- MUAL KAWI Villageのある家。 ミャンマーである家に呼ばれてお茶などご馳走になっていると近所のひとが集まっ てくる。どの人がここの住人なのかわからない場合が多い。実際、お茶やお菓子を 進めてくる人がご近所さん、隅で小さくなっている人が住人だったりする。 ここでもそうだったが、質問したり聞いても無いのに自分の話をしてくれるのは女 性が多い。男性は少し離れ聞いているだけだ。
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- MUAL KAWI VillageのPi NING KHWA ZANさんが保管している日本軍の手榴弾。 彼女のお兄さんは戦争中日本兵に殺されたと話していた。でも日本軍を恨んでな い、あれは仕方なかったとも話していた。記憶も少し曖昧になってきているようで これ以上は聞けなかった。私が帰るときにりんごをたくさんくれた。 先日、高野山の慰霊祭で聞いた話を思い出す。 「軍票が無くなり物々交換も出来なくなり食糧に牛を奪おうとすると現地の人に 「牛だけは勘弁してくれと」拝まれた。最初は申し訳ない思いもあったが、それが 段々無くなる。人の心が無くなる。それが戦争。上官に言われれば村人も殺した。 戦後、ビルマの人たちに対して申し訳ない気持ちがいつもあった」
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- 彼女はひ孫に日本人の名前「KIMURA」を付けた。 カレーからカレワ方面に向かう途中のGyi Kong村を訪れた。そこに暮らす94歳の Daw Hla Kyiさんの家へ行ったが、昨夜眠れず体調が優れないとのことだったが風通 しの良い雨軒下の寝床から起き上がると年齢は重ねているが強い眼が印象的だ。彼 女は数年前に生まれたひ孫に「Khimula Chibu」と名付けた。「Khimula」とは日本人 の名前「KIMURA」を意味している。戦争中この近くに日本軍の病院があり400から 500人くらい駐留していたそうで、日本兵の「KIMURA」さんと親しかったそうだ。 親しかった内容を聞こうしたが「もう良く覚えていない」と嘘か本当かわからない ような答えだった。それまでの受け答えから戦争中の記憶もしっかりしていたか ら、きっと覚えているのだろうが。 彼女がひ孫に日本人の名前を付けたことは自分の残り人生を考えたことだったのだ ろう。いつかこの名を持つ子が大きくなったら会ってみて、名前を気に入っている か聞いてみたいと思う。
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- インド国境にちかいチッカ村から車で少し戻ったKanSau Zang村に住むPu Lam Za Cin さん90歳。 戦争中、ある時イギリス軍が村に駐留していたが、当初勢いのあった日本軍がやっ てくると噂が広まるとイギリス軍は居なくなり、その後トンザンから通訳を連れた 日本兵2人が来て、村人は日本軍を歓迎した。滞在は6ヶ月くらいだったそうだ。 当時村には約40世帯、300から400人くらいの住人が居ただろう。 イギリス軍は朝晩の2回、飛行機が2機やってきて爆弾を落として、夜日本軍と村 人で道路を治す日々だった。村には多くの戦争中の部品が各家に残っている。
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- ティディムは北部チン州の中心都市。 チン州はミャンマーの北西部に位置しインドやバングラディッシュに国境を接して いる。ミャンマーにはヤンゴン管区など日本語にすると管区と呼ばれる主にビルマ 民族が暮らす地域と、それを取り囲むようにシャン州やチン州のように「州」と呼 ばれ主に少数民族が暮らす地域に分かれている。イギリス統治時代大まかに書くと イギリスがビルマを植民地支配する上でビルマ属と少数民族を対立する構図を作り 出し分断統治を長年続けていた。それが現在も少数民族の対立やミャンマー国軍と の紛争地帯としてミャンマーの未来を曇らせる根深い問題として残っている。 また、チン州はミャンマーで最も開発の遅れた地域と言われ、今年初めて州内に空 港ができる。
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- KanSau Zang VillegeのPu Vum Za Enさん85歳の記憶。 最初村にイギリス軍が居たが日本軍が来る前に逃げた。その後トンザンから通訳を 連れた日本兵2人が来て、村人は日本軍を歓迎した。その後50人くらいの日本兵が 来た。ある日、丘の上にイギリスの爆弾が落ちて日本兵4人と村人2人が亡くなっ たのを見た。覚えていることは覚えていると話し、あいまいなところはそう話して いた実直なタイプの人だった。 最後に私の名前と年齢を聞き、何度も握手をして別れた。
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- 街道沿いの家は木造が多い。ミャンマーの他の地域に比べ家の作りがしっかりして いる印象だ。雨の多さと気温が低くなることもあるし、傾斜地に建てることも理由 かもしれない。木目とカマドの炎は温かみを感じる。敗走する日本兵もこのような 家のお世話になり命を繋いだのかもしれないが、日本の田舎と似た雰囲気もあり故 郷を思い出したのだろう。
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- 雨季の朝はいつも霧に包まれる。 私の滞在中は偶々だったのか、毎朝霧は出るが雨が降っていることは無かった。私 はゲストハウスの暖かいベットの上で当たり前のように目が覚めるが、敗走する日 本兵は森の中で目覚めた時、自らの生存を確認し、希望の無い 1 日の始まりに絶望 を感じると共に、明日もこうして覚めることができるのだろうか?と思っていたの かもしれない。
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- 雨が止む時間が少なく道路は川のようになる。 2019年8月、Tedim Roadは例年より雨が多かったと聞いた。 分厚い雨雲で昼間なのに薄暗いので視界が悪い。標高が高いため雲が近く止む気配 を感じない重たい雲だった。世界有数の豪雨地帯と言われ、特に1944年は数十年に 一度クラスの大雨だった。退却時、敵機から身を隠すため昼間は「たこ壺」と呼ば れる個人壕に潜み夜を待っていた記述は何度も見た。雨でたこ壷は首まで水が溜ま りそこに一日中浸かっていると皮膚はふやけさまざまな菌が入り込み冷たい雨が容 赦無く体力を奪う。予想していた以上の気温の低さで過酷な退却路が想像できる。
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- Twi Kiang 村。この近くの山の中で最近、遺留品の腕時計や万年筆が見つかり現 在、そこから少しづつ範囲を広げ発掘調査を進めている。敗走する中、昼間は敵に 見つかりやすいため山の中に潜んでいたところで力尽きたのだろう。正面のふたこ ぶの山も激戦があったと地元の人が話していた。畑を耕したり山で山菜など採って いる時に遺留品など見つけることがあり、その時連絡がもらえるネットワークを構 築しながら発掘調査が進んでいるそうだ。こうした広がり多くの英霊のご遺骨や遺 留品を見つけることができている。聞くと発掘を手伝っている現地の人たちはとて も献身的と聞いた。村に日本兵が居たことで戦禍に巻き込まれたり、食料を奪われ たり酷い目に遭っていたことを思うと彼らに対してお礼を言うことくらいしか私に は出来なかった。
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- マニプール川を渡る鉄筋の橋のそばにあった渡しゴンドラ。 橋ができる前は小さい木造の橋で雨季に流されることがありこのゴンドラが役にた っていたそうだ。 数年前に鉄骨構造の立派な橋ができたことでその役目が終わっているが今でもこう して残してある。「渡ってみるか?」と聞かれたが丁重にお断りして先を急いだ。
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- Fort White と呼ばれている激戦地のひとつ。四方の山々を見渡せるため陣地として重 要だったのだろう。今は人々がピクニックに訪れて写真を撮ったりお弁当を広げた りしている。十字架が立っているのはこのあたりはキリスト教徒が多いためだろう。 標高が約 1500mあるため雨季に来た時は雨と霧で視界が悪くとても寒かった。 しかし乾季になると遠くの山々まで見えて緑の山々が連なる絶景ポイントだった。 景色は日本の信州の山々に似ていた。日本を遠く離れ、中には中国から南方を経て 何年も帰国していない日本兵は気候や景色から祖国に想いを馳せていたのだろう。
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- ミャンマーの人たちの90%が仏教徒、キリスト教とイスラム教が各々数%と言われ ている。チン州、カチン州はキリスト教徒が多いと聞いていたが8月と3月に各々数 日間滞在していたとき僧侶と会わなかった。服装もロンジー履いている人も少ない し食堂に入ってメニューに牛肉料理が書いてある。ミャンマーの仏教徒の人たちに とって牛は農作業や荷物の運搬など生活に不可欠なパートナーと考え食べない。チ ン州にきて「ここは本当にミャンマーなのか?」と思った。夕暮れ時ゲストハウス にいると讃美歌の歌声が聞こえてくる。それでも街中ですれ違う人たちの表情など 見ていると「やっぱりここはミャンマーだ」と感じた。 ここは Tedim のゲストハウスの向かいにあった教会。朝靄が晴れてきたころミサに 向かう人たちがポツポツと集まってきていた。
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- イギリス軍の砲弾は大きい印象がある。 ミャンマー国内で砲弾を再利用した鐘を何度か見かけたことがある。シャン州イン レー湖畔の村の学校や僧院で使われていた鐘は二回りくらい小さく叩くと甲高い音 がしていた。しかしこのティディムの教会で使われていたものは大きく深い音がす る。たまたまなのか分からないが日本軍の大敗、敗走の歴史からイギリス軍の砲弾 が大きく、日本軍は小ぶりという図式がどうしても頭から離れない。 インパール作戦に限った話では無いが戦争末期になると日本中で様々な物資が不足 し、ビルマ戦線でも砲弾は 1 日数発しか使えない戦局が良く戦記に書かれている。 しかも一発こちらから撃つと数千発の「お返し」が来るから簡単には撃てない話も よく見かける。そのような状況は前線の兵士のみならず全員が無謀な戦いの現実は 分かっていたはずだろう。それでも司令部は「大和魂」で突撃しろと命令していた。
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- カレーミョー駅構内は活動の気配すら感じない。 ミャンマー国内は活用されて無いが線路網はそれなりにあるようだ。 イギリスが入植して資源開発、物資の運搬に線路網を増やし、太平洋戦争中も重要 な舞台となっていた。日本軍が有利だった頃イギリスをインドへ追いやるなか鉄道 網を手中にしていたが形勢が不利になりはじめると連日空襲と改修の繰り返しだっ た。イギリスも取り返した後のことを考えて徹底的に破壊まではしなかったようだ。 しかし独立した後、ビルマ式社会主義の失政と軍事独裁政権で鉄道網は廃れ、人の 移動のみならず物流も車に頼ってきた。それでも 2011 年以降の民主化、経済発展の なか日本の JICA など協力し鉄道の整備が始まっている。
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- メティラの郊外に残る激戦の跡を残した場所。インパール作戦で大敗し敗走が続く 中、次なる激戦のひとつが「イラワジ会戦」だった。Tedim Roadはカレーミョー までとされているが、日本軍の敗走ルートはマンダレー、メティラ、北東部などか ら続いている。そしてイラワジ会戦に挑むがもう英印軍の勢いを止めることはでき なかった。大敗と敗走で消耗を続ける日本軍。白骨街道は南のラングーン方面とシ ャン高原から東のタイへ続くルートへと続く。ここは日本軍の激戦の地として残し てあり隣の僧院が維持管理してくれている。近くには戦後日本の支援(恩返し)で つくられた大きな井戸もあった。近年、ここを訪れる日本人が年間何人いるのだろ うか。
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- インパール盆地付近を源に流れるマニプール川、戦記によると30kgを超える荷物を 背負い行軍していた日本兵、この川をのぼると目指すインパールがあると知ってい たのだろうが、そこに辿り着いた日本兵は捕虜になったものだけだった。 この時、英印軍の作戦は「日本軍をインパール 盆地に誘い込み兵站が伸びきったと ころを叩く」方針だった。しかし日本軍の指令部は誰も気づいていなかったと記録 されていた。3 週間でインパール を攻略する作戦だったため食料、弾薬はその分し か携行せず、足らない時は「敵の糧」を奪う方針を伝えていた。
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- 3月、乾季の朝は雨季のような深い霧はあまり見かけなかった。 この地を進軍した弓師団は1939年に仙台で編成された。中国に駐留していたがビル マ侵攻に伴い1942年ビルマに送り込まれた。 インパール作戦当時師団長は柳田元三中将、しかしトンザンの戦闘で英印軍の抵抗 に会い牟田口司令官に作戦の変更を進言したことで間もなく更迭された。インパー ル 作戦の異常性を表す一つに師団長更迭がある。作戦中の師団長更迭は世界中の戦 争史を見てもあまり例が無いそうだ。しかも参戦に参加した弓、祭、烈の三師団全 て更迭された。
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- 今回の撮影のベースにしていたティディム。私がヤンゴンに戻り帰国し数日後。ミ ャンマー で初の新型コロナ感染者が出たのとニュースが流れてきた。当初詳しいこ とは分からなかったがティディムに住む友人から町がロックダウンになったとメッ セージが来た。カレーミョーに行けないのが不便だが元気にしていると書いてあり 一安心した。医療の行き届かないミャンマー の実情を考えると感染拡大の心配はあ るが、これを書いている 7/31 時点で陽性者 353 人でほぼ、海外帰国者で市中感染は 広がって無いように思える。
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- 山岳地帯が終わり眼下に視界が開けたとき、どう感じたのだろうか? 車で山を降りて行く道すがら頭の中で考えていた。 山道はジャングルなど隠れるところがあったが平地にでると容易に隠れられる場所 は無くなる。 平地に出ると地形は平らになり移動は楽になるし、畑が多くなり食べ物は手に入り やすくなる。 など条件を頭に浮かべてみたが背後に迫る敵がいれば進むしか無かったのだろう。 ただ視界が開けた場所にきて、ここまでの苦労や失った仲間など思う余裕は有った のだろうか。
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- ティディムからカレーミョーに戻る時街を見下ろせるところに車を止めてもらっ た。ティディムがチン州北部の中心の街と聞く。山深いチン州においてはなだらか な一帯になるのだろう。 戦時中、街はイギリス軍の大きな基地があり、迫りくる日本軍にイギリス軍が撤退 し多くの弾薬、車両の他、食料も残していったそうだ。日本兵の間でそれらは「チ ャーチル給与」と呼ばれていた。 インパール作戦は兵站と敵情を軽視し、「糧は敵から奪って戦え」と作戦を指揮し た牟田口司令官の言葉を皮肉っていたようにも思える
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- 遠くに見える山の少し手前にチンドウィン川がながれている。Tedim Roadを退却 する日本兵は何処にたどり着けば兵站基地があり米があると噂を聞き、それを糧に 進んでいたと戦記に書かれていたが、たどり着いても何も無かった場合はほとんど だった。そこで力尽きることも多かったのだろう。
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- 砲弾跡に育った大きな木、この木の根本にもまだ英霊が眠っているのかもしれな い。土砂降りのなか佇む姿は墓標に見える
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- この辺りで日本軍と英印軍が最初に戦闘があったと言われたところ。 遠くに牛を2頭つれた少年がこちらを物珍しそうにみていた。小高い丘が連なる斜 面に大きな窪みがいくつもあり、砲弾が落ちたところがそのまま残っているとのこ とだ。開けた傾斜地の場合、上に立つほうが有利なのは当たり前だ。日本軍は砲弾 が不足していたため援護射撃の少ない中下から突撃を繰り返さざる得ない状況だっ た。英軍は日本軍の突撃戦法を熟知し、鉄条網を張り巡らし登ってきそうな場所を 多方面から狙えるように機銃を設置に日本兵へ銃眼を向けていた。また夜襲に備え 照明弾を十分に用意していた。
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- タイヤが埋まる泥地。 この道はメインの通りから少し山を登ったあたりを並行していた。道幅はあるので おそらく旧道か工事用の道路なのだろうか。 雨水を大量に吸い込んだ地面は柔らかく轍が深くなっている。歩いていても気を付 けないと足が埋まる。
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- 雨季のチンドウィン川、このときは薄日が差す穏やかな姿を見せていたが1944年、 ここで多くの日本兵が力尽きた。 インパールを目指し兵器、物量で圧倒する英印軍に敗れ2000m級の山々を倒れ行き 仲間を白骨街道に残したどり着いたチンドウィン川は3月に渡った時と全く違う姿 ををしていた。場所によって川幅は600mを超え流れも早い。追撃する敵から逃れ るためにここを渡るしか無い。意を決して夜中に渡河を試み体力を消耗していたも のは流れに贖えずあっという間に下流に消えていったと生還した方々が残してい た。 2019年8月、雨季のチンドウィン川を訪れた。前夜から時期らしい豪雨が降り続い ていたが早朝に雨は上がっていた。数年前に立派な橋がかかり今は車で簡単に渡れ る大河。私は友人に頼み橋を渡った先で車だけ戻してもらい私は500mくらいの橋 を歩いて渡った。写真はその橋の上から上流方向を撮った一枚だ。穏やかな流れに 見えたが川の中央付近まで来て見下ろすと流れが早かった。 当時、体力の限界を超え、マラリヤや赤痢が蔓延し満足な船も無くどうやって渡っ たのか想像すらできなかった。 この後、カレーミョーからヤンゴンへ向かう飛行機の窓からチンドウィン川を見て いたがところどころ川から水が溢れ、どこまでが川なのか分からない場所があっ た。右に左に村の一部を呑み込み蛇行する大河は巨大な蛇のように見えた。
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- ヤンゴン郊外の日本人墓地にある池。 蓮の花と竹が美しい。蓮も竹もミャンマー に有るが日本庭園風にアレンジしてある のだろう。現地で力尽き祖国へ帰れなかった日本兵のみならず慰問に来ていた女性 や看護師なども埋葬されているそうた。毎回とは行かないがヤンゴンに来ると何度 か立ち寄り線香をあげている。