2011年3月アーカイブ

PCミーティング中に(東日本大地震)


2011年3月11日金曜午後2時半過ぎ、会社で仕事中だった。
丁度、福島県郡山の工場とパソコンとイントラネットを使ったPCミーティングをしていた。
画面の向こうで顔なじみの同僚が「そちらは揺れてません?こっち結構揺れて来てて・・・」「こっちはまだ・・」と答えるか答えないうちにガタガタと揺れ始めた。画面の向こうで机の上の液晶モニタが激しく動いていた。そして彼が机の下にもぐるところで画面が、接続が切れた。それっきり電話も何も通じなくなった。

今までに経験したことの無い揺れが2分以上続いていた。会議室から周りを見ると天井から吊した照明が激しく左右に揺れ全体的に視界が悪くなるようなほこりっぽさが蔓延していた。

大きな揺れが収まり職場に戻ると防災用ヘルメットをかぶり呆然とする同僚達の姿を見て私も机の下のヘルメットをかぶった。
その後も大きな余震が続き絶えず揺れているような状態が続く中、会社が地震発生から1時間半近く経ってからグランドへ避難指示があり、その間に建屋の診断をしていた。グランドで待つこと30分くらい、職場に戻り帰宅出来る人は速やかに帰宅する指示があった。ただ小田急電鉄が止まっているため車、徒歩、自転車で帰れる人は帰っていった。
歩くと4時間弱で帰れそうだがどうしようか考えていたら職場の同僚が駅前に8人乗れる車が有り、何人かで話し合い最初に私のところに来て、私は妻を迎えに行くため車を出すからそっち方面の2人を乗せて行くことに。

会社から駅まで歩いていると道路は大渋滞していた。駅前から私の家まで通常なら1時間はかからないが結局3時間近くかかり到着。
幸い私のところは停電も無く、水道・ガスも大丈夫だった。

車で新百合ヶ丘方面に向かうが途中停電し信号も消え警官が交通整理しているところがかなりの広範囲であり、自宅付近の幸運を実感しながら車を走らせる。当初職場の同僚を送り届けてから妻の職場へ向かう予定でったが道路の混雑が激しく、先に妻の職場へ。
そこで京王相模原線が動き出したことを知り、職場の同僚は道路の混雑等を判断し京王線と徒歩で家路を目指し、私は妻と近所に住む妻の職場の同僚を乗せて日付が変わる直前に帰宅できた。
帰り道はさほど渋滞も無く停電エリアで交通整理の無い交差点も皆、譲り合う精神で危険を感じることもなく冷静に行動する人達に嬉しく頼もしくなりながらハンドルを握っていた。
後にメール等で知った同僚も時間はかかったが無事帰宅したとしり安心した。
自宅内は本棚から本が落ちたり、ガラス食器が少し割れたりしたが大きな家具が倒れたりは一切無く、耐震突っ張り棒等の対策が功を奏していた。

テレビを観ると想像を遙かに上回る惨状が次々と分かり自然の猛威をあらためて思い知った。

親兄弟親戚も無事を確認でき一安心したが、多くの被災者の方々を思うと言葉もない。一日も早い復興を願い、自分に出来ることからでもしようと思っている。

地震発生直後から電話は繋がらず、メールも届きにくい状態もあり、インターネットが一番安定していた。ツイッターやmixi、facebook等が貴重な情報源だったし、友人の無事が確認出来た。デンマークに居る元同僚からも大丈夫か?の書き込みがありネットが世界を繋ぐさまをあらためて実感した。

明日から会社に行くが郡山の工場が心配だ。facebookに工場の人が居てその書き込みを見る限り相当な揺れだったようだ。金曜の社内放送で全員の無事は確認できたそうだが心配だ。
金曜日たまたま郡山から本社に出張していた人達は帰れたのか。逆に郡山に出張していた同期の職場同僚は戻って来れたのか。私も毎月のように出張していた郡山で今週の金曜も出張予定でどうなるのか分からない。新幹線も簡単には復旧できそうもないし。被災者の救助が進めばそこからの復旧復興への模索が始まるだろう。

今回の大震災、死者不明者が現在テレビ報道で3000人以上となっているが最終的にどこまでいってしまうのか考えるだけで恐ろしい。それと原発事故の予断を許さない状況も心配だ。

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