2008年7月アーカイブ

2日目(大法要;高野山)

2008072603.jpg6:30 
護摩焚きが摩尼宝塔であった。参列するため5:30に起きて準備をしていたら6時過ぎに早くも修行中の若い僧侶が布団を畳に来た、しかもテキパキした素早さにあっけにとられていると1分もかからず6人分の布団を片付けてしまった。さすが宿坊。








8:30 

戦没者が祭られているビルマ式パゴタのような大きな仏塔にバスで移動。

住職やミャンマー人僧侶がお経をあげる中、参列者が思い思いに線香や蝋燭をともす。

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10:30
摩尼宝塔で大法要が始まる。

強い日差しの中、始まる。昨夜の前夜祭のようなお祭り雰囲気は微塵も感じられない。しっかりと本堂をまっすぐ見つめる参列者。ビルマ戦線を戦った人、遺族、友人などが見守るなか厳かに進行する。

第43回ビルマ方面戦没者並びに物故者慰霊大法要

 開会の辞
 奉賛会々長の辞
 献花献茶
 御詠歌隊入堂
 ?(耳へんに'云'で出てこない文字)衆・法主・庭讃入堂
 参列者合掌 黙祷
 御詠歌隊奉唱
 前讃
 法主 回向文
 祭典委員長祭文
 慰霊文・遺族代表
 読経
 ミャンマー僧読経
 献花在日ミャンマー大使

 焼香

 般若心経唱和
 後讃
 御詠歌隊唱和
 ?(耳へんに'云'で出てこない文字)衆・御詠歌隊退堂
 法主 挨拶
 閉会の辞

2008072602.jpgこのなかで私が一番衝撃を受けたのが"祭典委員長祭文"だった。93歳の高齢にもかかわらず長い巻物を力強く読み上げていた。


『・・我々は欧米列強からアジアを開放することを信念に戦い、敗れ多くの仲間を失い失意の中日本にたどり着いたがそこで待っていた東京裁判で犯罪人扱いにされたことは本当に悔しい・・・』

私のような戦後世代は第二次世界大戦を歴史としてしか知らず、戦地で絶望しそうな状況で戦い生き延びた人の生の声、最前線で戦った、思いを初めて聞き、カメラを持つ手も止まりただただ聞いていた。

祭典委員長が読み終えた祭文を私の傍に居た人が苦労しながら巻き上げているのをみて無意識に私は手が伸びて、手伝っていた。正確には触れてみたかった。この目に肉筆を焼き付けたかった。フィルムにも、ましてやデジカメにも収める気にならなかった。

綺麗な字でなく、修正とつぎはぎだらけで曲がったりしていた文章だったが力強い文字が刻まれていた。

少し経ってからミャンマー僧の読経があり、独特のやさしいイントネーションを聞いているとインレー湖に泊まり早朝から流れているシーンを思い出す。

品川のミャンマー大使館から大使夫妻と通訳の青年が来ていたのは少々おどろいたが献花と挨拶を無難にこなしていた。前夜祭のとき大使を紹介していただき名刺も頂いた。人当たりの良さそうな頭の良さそうな感じの大使で、流暢に英語で話をしていたのは印象的だった。

12:00
大広間で最期の昼食。
イベントが終わりくつろいだ雰囲気だったが、年々減る参列者を残念がる人達の話が方々から聞こえてきた。

1日目(前夜祭;高野山)

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「これで僕の"戦後"はようやく終わったよ・・・」O氏が大法要前夜祭後に部屋でもらしたひと言、とても重く響いた。

 O氏はバンコク在住のDr.T氏の学生時代からの友人で、私が最初にミャンマーを訪れたツアーで一緒だった。O氏の話では彼の叔父は第二次世界大戦中マンダレー付近で戦死されたとのこと。そして彼が昨年マンダレーを訪れた際、ある僧院で旧日本兵の遺留品があるから返還したいと申し出が あった。遺留品はビルマ戦線で戦死した旧日本兵のもの。

 出征時にもらった日章旗の寄せ書き、別の戦地(モンゴル)からビルマへ送った絵はがき(1枚目写真)、当時の女優と思われるブロマイド、馬に乗った戦友の写真、そして疑似機関銃だった(2枚目写真)。疑似機関銃とは、インパール作戦に破れ敗走する日本軍は補給路を断たれ、食べるものも戦う武器すらない状況でも敵と戦うために機銃掃射音に似せたものを使っていたそうだ。

これらの遺留品を日本に持ち帰り、戦没者が眠る靖国神社に納めようと持っていったら受け付けて貰えず、厚生労働省に日章旗や手紙にあった名前を調べてに行っても手がかり無しで困っていたところ、ここ高野山の成福院では毎年、ビルマ戦線戦没者慰霊法要があり、このような遺留品も納めてくれることがわかり、今回の参加となった。

私もここ数年ミャンマー(ビルマ)との少なからず係わりがあり、同行させてもらい参列したのが今回、高野山に来た経緯だった。

2008072401.jpgO氏は前夜祭の席でこれまでのことを参列者に説明し、その中で「この遺留品を60年以上も大切に保管してくれていたビルマの人たちに我々は感謝の気持ちを強く持たなければならない」と訴えていた。


自分の両親も終戦のころはまだ子供で戦後の大変な時代を生きてきた話は聞いていたが、戦地の話はドラマや映画、本で知っている限りだった。しかし、今回、直接戦地で戦い、多くの戦友を失ってきた人たちの話は言葉にすることすら出来ないと感じた。

 

3枚目の写真は大広間の夕食。100人分の精進料理を手際よく給仕していた。


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高野山

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昨夜、高野山から帰ってきました。今回高野山の宿坊に泊まり参加してきたのが

『第四十三回 ビルマ方面 戦没者並びに物故者慰霊大法要』に縁あって参列するためでした。

今回誘ってくれたのがミャンマーに行くとき何かとでお世話になっているバンコク在住のDr.T氏だったのだが集合場所の南海難波駅に着くとミャンマーインレー湖からA女史も来日していた。全く聞いていなかったので今回一番のサプライズでした。

今回のような法要に参加したのは初めてで、書いておきたいコトは沢山あるので忘れないうちに後日書いておこうと思ってますが、一番印象的だったのは、学校の授業で習ったことより、本を読むより、ニュースで見るより、映画で観るよりも実体験をしてきた方々の言葉でした。

1枚目の写真は高野山のシンボル、金剛峯寺

2枚目の写真は法要式次第

3枚目の写真はお世話になったお寺の「摩尼宝塔」に展示してあったミャンマーの仏像(電飾後光付き)

視界がぼやける湿気

今日、シゴトがおわり着替えて外に出たら『霧雨?』と思えるような薄ぼんやりした景色。

 

暑かった一日

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今日の最高気温が何度だったかわかりませんが体感は37℃くらいでした。

昼に渋谷を歩いていたら目眩がしそうなアスファルトの照り返しでした。

知人がナダール渋谷で写真展を開催していたので観て、2年ぶりに少し話しもできました。彼女は数年前に大病をし回復後に2度新宿ニコンで個展をやっている独特の感性と表現力をもっていて、今回も彼女の世界は健在でした。

その後、新宿エプサイトギャラリー2へ。今回の展示から本格的な個展がはじまっていた。

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池谷友秀写真展
「BREATH」
会期:2008年7月11日(金)~7月24日(木) 10:30-18:00
(最終日は15:00まで)

人には変えられないものがある。同時に変えられる可能性を秘める。隔絶と融和。
境界線をとらえた前作から、舞台は水面下へと潜行する。International Photography
Awards2007受賞作『WAVE』を継ぐ続編。

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ギャラリー2の運営が始まってはじめての個展だったので、不慣れな部分も多く展示やその他
いろいろ苦労した点、もっとこうすれば良かった点などいろいろ参考になるコトを沢山話してく
れた。写真も独特のコンセプトと美しいカラープリントで世界を表現していた。
お薦めの写真展です。

夕方、師匠のトコロへ報告と展示について相談に行ってきました。
珍しく人も少なく、落ち着いていろいろ話ができ、展示の青写真がやっとまとまってきた感じが
してます。

写真は帰りがけの多摩川からみた雲、印象的でした。

いろいろの一日

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朝、職場についていつものようにPCの電源を入れ、Windowsが起動し・・・

2ヶ月が過ぎたミャンマーの被災地

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昨夜、バンコクに戻られたDr.T氏からミャンマー南部の被災地の写真が届きました。

サイクロン被害がから約2ヶ月が過ぎましたが、現地の人々は我々の想像も及ばない苦境のなか復興に向けて日々頑張っているとのことでした。

シャン州在住のA女史もホテルやレストラン経営をスタッフに任せ、建築資材を被災地に運びつつ大工20数人もつれて支援に向かって活動されているとの話で、頭がさがります。まだまだ継続的な支援が必要なのは明白です。

 

オリジナルプリント

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先日、写真家の有元伸也氏から「プリントが完成しました」と連絡があり・・・

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